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流れる星は生きている

これも終戦70年にぴったりな話。別にそれを狙って本を手に取ったわけじゃない。藤原正彦の本を読んでいるうちに、いろんな人に勧められたので、トロントに帰る機内で読んだ。 藤原正彦の母である藤原ていの手記。第二次世界大戦終戦目前にしてソ連参戦により、満州から一年かけて、母一人子供三人を連れての引揚げ体験。命からがら帰国を果たしたものの、長生きはできないだろうと、子供三人への遺書として書かれたものがこうして本になっている。夫は同行していないし、乳児、三歳、六歳の小さな子連れのため、同じ引揚者の間でも疎んじられ、騙され、取り残され、とひどい扱いを受けたりする。北朝鮮の橋のない川を子供を一人ずつ抱きながら三往復シーンに涙。38度線を越えるまで多くの河川を同じようにして渡り、大変な思いをして突破。最後は米軍に救助され、日本に帰国。 母子の道を阻み、「公衆道徳」を盾に必死の母子をなじり、騙そうとした人々への怒りと恨みはいついつまでも克明に残り、道すがら助けてくれた日本人、朝鮮人、ソ連兵士、アメリカ兵士への感謝は永遠に生きている。この母が諦めてしまっていたら、藤原正彦の数々の著書にも巡り合えなかったし、夫の新田次郎が小説家になることもなかったかもしれない。 「壮絶」という言葉がぴったりだけど、日本軍撤退のときに大陸でも南方でも一般市民が大変な目に遭っている。

沖縄 – ひめゆりの塔

小学校の頃ひめゆり学徒隊についての本を読んだ。何度も読んだので、冒頭で、著者の男性が12月の那覇空港に降り立ち、冬でも暖かいからコートを脱ぎながら、学徒隊の生き残りである女性に迎えられるシーンを覚えている。これで読書感想文も書いたからわりと鮮明にいろんなことを記憶している。そういう刷り込みがあって、是非ひめゆりの塔を見てみたい、本で読んだガマ(洞窟)は想像どおりなのかしら、などと今回沖縄旅行の目玉になっていった。 那覇のホテルからタクシーで糸満市に向かう。道すがら、那覇空港横にある自衛隊の基地を通り過ぎる。「不発弾処理」と書かれたジープを見かけたので、運転手に尋ねると、不発弾は沖縄にはまだ多く残っていて、発見したら警察に連絡し、警察から自衛隊に要請を出して、不発弾処理班が出動するのだという。新聞に「半径何メートル以内にいる人は、何月何日に避難」という告知が出るという。緊急の場合は、サイレンを鳴らして現場に駆けつけることもあるとのこと。 運転手に「ひめゆりの塔にある資料館に行きたいのか、その先の平和記念公園に行きたいのか、両方なのか」と聞かれオタオタ。スマホで調べる。「とりあえずひめゆりで」、「ひめゆりそばでも食べてから見るといいよ。学徒隊の生存者の方たちも、そろそろお迎えが来る頃だからね、証言活動は今はビデオだよ」と教えてもらう。 塔はもっと山奥にあるのかと思っていたら違った。外科壕跡の前は献花でいっぱい。中を覗き込むのは憚れるような気がしたけどちらっと見た。結構深い。壕というより洞窟。この壕にいたほとんどの人がこの中で亡くなっている。 資料館の入り口にはクイズが。「4月1日にアメリカ軍が上陸した島の名前は」。答えは沖縄本島。偶然だけど、私たちが資料館を訪ねたのはその4月1日。 展示は沖縄戦の経緯が時系列で説明されているのと、大戦が始まるまでの沖縄の文化背景(日本本土の教育を標準日本語で受けたり、沖縄の方言や文化が排除されていった様子など)や、非戦闘員である若年の沖縄県民がどのように動員されていったかが説明されている。教員になるはずだった女学生に看護訓練が付焼刃的に施されたこともわかる。生存者の証言ビデオは、アメリカ軍が撮影した当時の戦地の映像とともに見ることができる。証言者の話しぶりから優秀な人たちだということがわかる。証言も映像も実に痛々しい。「すごい!すごい!」と本物の人間が殺されているのをむしろ面白がっている感じで見ている大人もいて、70年の長さを感じた。そういうのってお茶の間ではアリなのかもしれないけど、資料館では慎んでほしいな。 手記の形での証言コーナーもあり、いくつか英訳もされている。十代の女の子たちが、米軍に占拠されている丘のガマ(洞窟)の中で解散を命じられた絶望が綴られている。70年前の3月23日に動員され、その約三ヵ月後の6月18日に解散を命じられ、その解散後、見放された形で、ひめゆり学徒隊のほとんどが亡くなってしまう。解散まではそれほど死者は出ていなかった。 資料館は小さいながらも見ごたえがある。やっぱり最後に行き着くのは、市民(非戦闘員)の犠牲を避けるための交渉がもっと早い段階で行われるべきだったのに、そうならなかったのはなぜだろうという疑問。沖縄戦では沖縄県民の4人に1人が亡くなっていて、沖縄の建物の8割が破壊された。 まあ、楽しいバケーション中に立ち寄る場所であるかどうかは難しいとこだけど、行ってみてよかったな。春休みだったからファミリーで訪ねてきた人もたくさんいた。 スマホで地図検索すると、ガマを追われた人々が逃げたという海岸に歩いて行けそう(この海岸は血の海だったらしいが)。というわけで、資料館から歩いて海岸へ。とても長閑なところだけど、あちこちに各県からの沖縄戦戦没者を弔う碑が建てられているので、このあたりが戦闘地だったということがわかる。近くにある平和創造の森公園の中にも東京都関係者の戦没者を弔った東京之塔がある。サトウキビ畑もある。海にはサーファーがいっぱい! 沖縄本島の南端だし、この日は天気が良かったので夕日がきれい!平和創造の森公園は戦火で草木がなくなってしまったところを植樹して緑化しているのでとてもきれい。 帰りのタクシーの運転手に那覇新都心の近くにあるホテルの名前を告げると「ああ、あそこは昔からあるホテル。3回ぐらい名前変わってるけど」と豆知識を教わった。新都心は米軍住宅地跡地を再開発したところということも知った。道理で街がなんか新しい。 …とこれを書いていたら、天皇陛下と皇后陛下がパラオのペリリュー島に慰霊の訪問をしていた。70周年だしね。 生存者にお迎えがきて語り部がいなくなり、天皇陛下にだってお迎えがいずれ来るのだから、戦争の振り返り方も変わっていくだろうな。そういう意味でも70周年は大切かもな。

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沖縄 – 那覇と阿嘉島

忘れる前に沖縄の旅について書いておこう。 そもそも、沖縄を旅するカナダ人のドキュメンタリーを見た教授が沖縄に行きたいと言い出した。帰りの予定を変更して沖縄で遊ぶ時間を作ろう!なんかわからないけど那覇行きの飛行機を押さえよう! 那覇直行便を押さえた後に、石垣島とか宮古島へ直接行けば?とか離島がオススメ、ということを人から聞く。ナニ?レンタカーがないと不便?二人とも国際免許の用意がない。下調べ不十分なまま、現地入りしてからのスマホ頼りで行った沖縄であったが、結果はナイス。 まずホテルのサービス満点。平素ビジネスホテルご愛用なのでサービスに期待していなかったからかも。「なんか沖縄料理のいい店ないかなぁ、島唄のいい店ないかなぁ」とつぶやけば、ササっと調べて予約までしてくれる。英語も上手。おかげで、こんなにうまいフーチャンプルー食べたことない!というフーチャンプルーを食べたし、ネーネーズの島唄も聴いた。 グルクンの唐揚 このホテルで配られる朝刊は「沖縄タイムス」。菅官房長官と沖縄県知事の会談前とあって、記事はどれもこれも読みごたえあり。読者からの声もたくさん載せていて、基地問題への関心度の高さとか、真剣さが伝わってくる。基地問題については本土の新聞記事と沖縄タイムスを読み比べたほうがいいということに気づいた。 偶然入ったバーでは、「那覇を是非満喫して好きになってもらいたいから」とお店の人やお客さんから、いろんな情報を教えてもらう。その中から慶良間諸島の阿嘉島へ。この島は自然がまだまだ残っていて、小さな民宿しかないようなところ。フェリーを降りて、レンタサイクルして、島のあちこちを自転車で回った。少しは泳いだけど風がきつく、ほとんどビーチでごろ寝。阿嘉島と周辺の島を結ぶ橋の上からは海亀やサメなどが泳いでいるのが見え、サイクリング中には慶良間鹿とも遭遇した。この鹿は泳いで島を渡ることができるらしい。私が見たときは陸を歩いていたが。絶滅危惧種であるからこの遭遇はとてもラッキー。 フェリーに乗っている間、前夜に聴いた島唄を思い出す。沖縄本島の小さな村から内地へ出稼ぎに行くのだけど、船は那覇からしか出ない。両親は貧しく那覇まで子供を見送ることはできない。そこで、親は丘に上がって火を焚き、那覇を出航した船から子供が見えるよう、煙を空高く舞い上げる。子供の乗った船からの煙、そして丘からの煙で、親子の別れ、親子の絆を確かめ合う、という歌詞。唄を聴いただけでもジーンとくるのに、景色を見ながら唄を思い出すと泣けてくる。 泡盛専門の飲み屋では、ご主人と客からいろんなことを教わった。泡盛の中にも木樽に寝かせるものがあり、そういうものはスコッチウィスキーに近いような香りと味がする。あと、泡盛には本来は徳利は使わず、「からから」という御屠蘇の酒器のような陶製のものを使って杯に注ぐ。この語源は、一杯分程度しか泡盛が入っていないからすぐ「から」になるからだとか、中にビー玉のようなものが入っているものがあり、それが「カラカラ」と音を立てるからだとか、色々と謂れがあるらしい。注ぎ口が欠けやすいため「からから」は今はあまり使われず、内地の影響もあって、徳利型のものを使うことがほとんどらしい。サービスしてくれたのか、たくさん飲んだのにウソみたいなお勘定だったから(間違ってないと言っていたし)、春休み中で店の片付けを手伝っている小学生の息子さんにでもと千円置いてきた。 首里城も見てきた。でも…外国人も日本人もみな騒がしくてゆっくりは見れなかった。春休みだからなのかな… もっとゆっくり見たかった。沖縄戦で建物の八割は破壊されてしまった沖縄だから、古いものを復元したい念願みたいなものがあるのかな。 唯一、羽田を発つ前から行くと決めていたのが糸満市にある「ひめゆりの塔」。タクシーで行ったけど、これについては書くと長くなるから、今日はここまで。

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長い旅の終わり

ロンドンから始まり東京で終わった長旅が遂に終わってしまった。あまりにも長すぎて、日本では里心がついてしまったし、首が据わっていなかった姪っ子が寝返りを打つようになったし、マッサンの最終回も見たし、自分の家に居ることが不思議でならない。 東京は桜が本当に多かった。それが帰国最後の週末に満開になったもんだからラッキー。桜が咲き出す前から「サクラ、サクラ!」と騒いでいた日本人を不思議に思っていた教授も、ほぼ満開の東工大キャンパス、目黒川、上野と回り、桜並木と花見客を目の当たりにして、なぜこんなに全国的に日本人が楽しみにしているかがよくわかったらしい。私も桜の花を日本で見たのは久しぶり。桜の咲く中の卒業式、入学式、人事異動と、出会いと別れの季節だということも思い出しながら見ていた。 今回私の仕事面では、実りのない、ハズレクジを引いてしまった感じの残念な結果に終わってしまったけど、そのおかげで東京を満喫できたし、会津や伊豆にも行けたし、家族や友達との再会も楽しめたし、姪っ子とほぼ週一でデートもできた。 最後は教授の希望で沖縄へ。海開きしたばかりとあって、まだ人が少ないようで、何も大した計画も立てずに行ったわりには、思い切り遊べた。これについてはまた後でゆっくりと書き残しておこう。 でも今回東京にいる間、一番の思い出は、宿舎の近くにある、常連さんばかりが集うバーでの夜。この店を見つけ、足繁く通ったおかげで、常連客や、店の女の子たち、そしてママさんと親しくなり、楽しいひと時を過ごした。私たちは短い間のお付き合いだったし、家人が日本語わからないのに、輪の中に入れてもらえた。家人が外国人なだけに、店によっては途方もないアウェー感を味わうはめになるんだけど、ここは違った。最後にお別れのおみやげまで頂いた。次回東京に行くときも是非立ち寄りたい。 確定申告のシーズンに戻ってきたので、まずは面倒くさいことからいろいろ手をつけなければならないけど、ぼちぼちとトロントの生活に戻っていこう。

笹まくらに、水玉に、街場の現代思想

古本読書は続く… 読みきれなくてカナダに送った。 『笹まくら』 今年は終戦70周年。まずは徴兵忌避者の戦後20年の話。昭和49年発行の文庫だから、黄ばんでるし、今の文庫に比べると文字が小さい。徴兵忌避し、名を変え姿を変えて逃亡生活しているときの不安が「笹のかさかさする音」に集約されているから「笹まくら」らしい。そういわれると、その神経の尖らせようがわかるような気がする。思ったより読みやすくて、心理的な圧迫感があった。世間が戦争にどっぷり浸かっているときの徴兵忌避は、その後どう転んでも人生に付きまとう影。徴兵に対する危機感は、アメリカで911が起きた後に米国内ではあったよね。その前はベトナム戦争のときだけど。今読んでも新しい部分は結構あるな。「徴兵忌避」を「人に絶対知られたくない秘密」と置き換えて読むだけでも、いいかも。女に生まれてよかった、とか、もう徴兵の対象から外れている年齢なので、オバサンでよかったわ、とか思った。 『水玉の履歴書』 美容師さんのオススメで読んだ。サラっと読める。草間彌生は、夜な夜な朝日で空が白々としてくるときまで読書し、ものすごく精力的に絵を描き野心を燃やしている。今でもこんなにも頑張っているのか!と思う反面、ここまで来たからそう思えるわけで、そこそこ若かったら、そうは素直に思えないだろうということに気づいた。人間はどれぐらい年を重ねれば、「あの年でもまだ貪欲だ!スゴイ!」と素直に思ってもらえるんだろうか。 偶然にもこれを読んでから、国際フォーラムで開かれた「アートフェア東京2015」に行ったら、日本で草間彌生作品を扱っているギャラリーが出展していたし、この本に出てきたディーラーさんもブースに出ていたので驚いてしまった!この本を読んでいなければ、気づきもしなかったと思う。 『街場の現代思想』 よく内田樹のブログを読んでいるので、内容がかなりかぶっているけど、仕事やめたいとか、結婚すべきかどうか、なんてことに悩んでいる人にはグッサリとくる話。つまり、ほとんどの悩みは「実行する気ないけど、言ってるだけー、聞いて欲しいだけー」ということ。

父の威厳 数学者の意地

またまた藤原正彦。一番最後に収録されている「苦い勝利」が非常に面白かった。息子の修学旅行を犠牲にしてまでも学校による過剰な管理と戦う話。ま、私の中にも似た部分があるので(ルールに従わないとか)、苦渋難渋ぶりが手に取るようにわかるというか。 私の場合、OLをしていた頃、夜間英語学校に週二回通いたいがために、終業時刻10分前に私だけ帰らせてもらうことを許可してもらいたく、上司説得工作としてパンフレットなどを準備し、交換条件も用意して、これによりいかに自分の人生が豊かになるかを説いた。許可をもらったところまではいいけど、同僚からはほぼ総スカンを食った。そういう反応は想定内であったはずなのに、実際に体験してみるとかなり辛いことだった。その頃の私はまだまだ過渡期にいたから、その会社に骨をうずめる考えはなく、致し方ないことだった。その会社を辞めるとき「アンタみたいな子は将来痛い目に会うよ」という不吉な予言とか、「アンタはきっとどんなところでも生きていけるだろう」と褒め言葉なのか判断がつきかねる言葉を言われた。あれも一種の苦い勝利だったのかな。 国が変わってアメリカで会社勤めをしていた頃は、同僚たちが「今日はサッカーするんだ!」とか「今日はバレンタインデーだから」とか適当に仕事を早めに切り上げて帰るのが当たり前だった。残業は必要なときにする、という態度だった。でも一度だけ、誰もが就業中であるはずの昼間にミーティングをしようとしたら、「その時間、ヨガがあるから」と断られたことがある。アメリカを標準に考えると、かつてのあの苦い思いは何だったんだろう、と思ったりする。 閑話休題。 藤原正彦のエッセイはとても面白いけど、やっぱり武士道だとか愛国精神をしつこく持ち出すときはついていけない。気持ちはわからないでもないけど。本人だってそういう理想を掲げてはいるものの実はスットコドッコイなんだし。

燃えよ剣、フィッシュストーリー、伊豆のことなど

東京の喧騒を離れて伊豆へ。 河津桜もすっかり葉っぱが主役。それでも次の桜や花々が咲いていて、伊豆はやっぱり暖かいんだな。伊豆に来ると「金目!金目!」とみんなが騒いでいるのも楽しい。有名な煮付けは食べなかったけど、海苔で切り身を巻き唐揚げのように調理された金目が非常にジューシーでおいしかった。 東京からはスーパービュー踊り子号に乗って一気に下田へ。スーパービューは普通の踊り子号よりも窓がぐっと広い。乗り換えの面倒がなく読書が進んだ。読んだのは「燃えよ剣」 新撰組の土方歳三の一生を描いているから、戊辰戦争前後の歴史小説。「残忍極まりない」という形容詞をつけられることが多い土方歳三の、政治に翻弄されない剣士としての話。前に子母澤寛の新撰組の本を読んだことがあり(資料的要素が強い)、そっちの人物評に血肉がついて躍動感のあるのが「燃えよ剣」の土方歳三。政治に翻弄された激動の時代の話だし、佐幕派か倒幕派かという政治的立ち位置はあっさりとコロコロと変わっていく。そんな中での一刀両断の動物的嗅覚とかセンスを持った人ということで話が進んでいく。東京以北の日本地図を見ながら読んだ。「燃えよ剣」には会津の戦いについてはほとんど触れられていない。 結末を知りながら、不覚にも、東急目黒線の車内で最終章を読んでいるときに、真珠の涙を縷々と流してしまった。トム・クルーズの「ラスト・サムライ」は嫌いな映画なのだけど、あの映画のシーンさながらのラストだった。私が電車内で人目を憚らず涙を流しながら本を読んだのは「赤毛のアン」以来かもしれない。あのときは読書に没頭していて何駅も乗り過ごした。というか電車に乗っているということを忘れていた。当時は暇を持て余していたティーンエージャーだったからよかったものの… まあでも、戦のお話は読んでるだけでも疲れるね。 こっちは初めての伊坂幸太郎。フィッシュストーリーは映画を見たことある。ほかにも短編がいくつか収録されてるけど、どれも面白かった。もっと読んでみようか、伊坂幸太郎。でもカナダに帰ったら読まないかも。 刻々とカナダ帰国の日が迫っている。3カ月は短かく感じたけど、そろそろ自分の家に帰り日常を取り戻したい。編み物もしたい。やせたい。

INDIGO KOKESHI

マトリョーシカ情報よりコケシ情報が多いのは、どうも東北復興支援が絡んでいるからのようである。「どれに行こうかな」と悩んでいる間に出遅れてしまう。さすが東京。 原宿といえばビームス、ビームスといえばおしゃれ。そんなおしゃれさんのギャラリーでコケシが販売されるという。完全に出遅れたが行ってみた。ビームスとのコラボであるインディゴコケシはイベント初日2時間以内で完売したとのこと。これも錬金術のひとつであるなと感心。ピカソの彫刻のように見えなくもない「創作コケシ」がステキだ。が、もちろん高すぎ。買ったところでどうやってカナダに運ぶかという問題もある(買わないが)。 ところでこのビームスのfennicaには民芸品が置いてあった。いつもこうなのか。出西窯の食器が都会的な演出で並んでいた。 さてさて、こんなところまで来たからには、ステキな洋服の試着を断行。さすが素材にもデザインにも手抜かりがない。しかし、気に入ったものはみな(私の体に)入らない。ロンドン&東京の外食続きの生活で着実に太ったことはわかっていたが、ここまでとは。 「いかがですか?」 「入らないんです」 「え?どのあたりがですか?」 嗚呼、ファッションが私から逃げていく。 どれもこれも入らなくてショゲていたら、店員さんがコケシの展示会の小冊子を呉れた。お気遣いありがとう。

四周年

東日本大震災から4年が経ちました。THINK OF JAPAN WHILE KNITTINGの活動もこれで四節目。今年、トロントからはCAD$400、オレゴン州ポートランドからはUS$761を、東日本震災孤児支援のため「あしなが育英会」に寄付しました。日本のグループからも寄付の報告があると思います。今年も一年ご協力ありがとうございました。 今年は日本滞在中に関西や東京のグループの仲間、そしてお手伝いをしてくださっているニッターさんたちに会う機会を得ました。京都で開かれた「羊パレット2015」のTWJKのワークショップ、東京勝どきで開かれる太陽のマルシェのTJWKのブース、モチーフを一緒に編む「モチーフTogether」にも顔を出しました。それぞれのグループの代表の人が有志ニッターさんたちの協力を受けて活動を続けていたり、同じ東北支援活動をしている他グループとブースを共有してイベントに参加したりしています。無理なく長続きさせられるように、協力を惜しまない人たちがこんなにたくさんいるのだと身をもって知りました。 実は新しく家族が増えたので、その子にTJWKの真っ赤なブランケットをプレゼントしました。その子が成長して大人になった頃にはもうすっかりあんな大きな災害があったことも知らずにいるかもしれないけれど、真っ赤なお花のモチーフのブランケットはたくさんの人の手によって作り上げられ、その代金は震災孤児支援のために寄付されたことを後で知っておいてもらいたいなという気持ちがあります。この子はまだ幼いけれど、できたら、多くの人の無償の愛が詰まっている事実にあたたかいものを感じてくれる人に成長してほしいなと思っています。 冬に会津地方を旅していたときに、とある達筆な方がこんな言葉を紙にしたためでくれました。 誰の心にも花はある それを大事に育んで 大きな幸せの花を咲かせましょう 五年目も大きな幸せの花を咲かせたいと思います。

ペンパルの作ったお酒

子供の頃、文通が趣味で何人かお相手がいて、コネチカット州の女の子とも文法めちゃくちゃの英語で文通していた。トルコ人とも文通していた。今大人になってもブログが趣味なので変わってないなと思う。ピンポイントで私から手紙を受け取っても対応に困った人々が少なからずいたと思う。手紙魔だったから。 小学校高学年当時、チェーンレターが当時の小学生の間で大流行で、私もチェーンレターを受け取り、5人の中の最初の人に手紙を送ること、という指示に従ってある女の子と文通を始めた。 文通は高校入学あたりまで続いたと思う。心が穢れ出す高校入学あたりから文通のことは忘れ、やがて小さな女子大に入学。入学者名簿を見ていたら見覚えのある名前が… そう。会ったことはないけど、その名前は何百回も書いたことがあるペンパルが同じ学校に入学していた。しかしクラスが違うので会うことがない。 本当に一度だけ話す機会があった。「小学生の頃に文通していた人ですよね?」と話しかけたら、向こうも同じ大学にいることは知っていたらしい。しかし、なぜかその当時親しくなるということはなかった。ヘタにいろんなことを知り尽くしていたからだろうか。今は何も覚えてないけど。例のチェーンレターはいとこから来ていたので、実は祖父母からこのペンパルの家が酒蔵を営んでいることを聞いて知っていた。 先日、日本橋三越の向かいにある「三重テラス」にふらりと立ち寄ると、ペンパルの酒蔵が出している酒が置いてあった。「これはペンパルが作ったお酒だ!」と教授と二人で三重テラスでテンションをあげまくって買った。 お上品な仕上がりのお酒。飲んでいると、昔の思い出に浸ってしまう。ペンパルの名前はユニセックスだったので私は最初「男の子」と文通するんだ!と緊張していたら、しょっぱなに受け取った返事に「私は女の子です」と書いてあったこととか。 不思議な縁だなぁ。素直に嬉しいけど。