友達からおみやげをもらった。人形、マトリョーシカ、こけし、タオルハンカチ、豆皿とすべてがツボだった。うれしい! 極小マトリョーシカは、ケーキに入れる陶製の人形。そういえば、カナダに引っ越しするときのお別れ会で友達がそういうケーキを用意してくれた。陶製の人形はみごと私のスライスに入ってて、紙で作った王冠を被らせてもらってそのケーキを食べた。ふふふ、その気遣いが嬉しかったよ。 この土人形が私に似ているといろんな人に言われた。小学生の頃から今までフォーエバーこんな感じだからな。 ありがとう!
Author: Kyoko Nitta
ラグラン袖の黄金比
最近久しぶりに大きなものを編む時間ができ、ラグラン袖のセーターを編んでいる。首のほうから下に向けて編んでいき、首まわりも前身頃も後ろ身頃も袖も一気に一緒にぐるぐる編んでいく。 なぜラグラン袖は身頃と袖を割ったところを、2段ごとに両サイドに1目ずつ増やしていくとちょうどいい塩梅に袖ができていくのだろう。ゲージに関係なく、糸にも関係なく、いつもこうだ。これはいわゆる黄金比というやつなのだろうか。古代ギリシャ建築の柱の美しさのように、計算され尽くした数学的な美と、着心地の良さを追求した結果なのだろうか。 もしかしたら建築様式の本を翻訳することになるかもしれないと思って、建築の本をいろいろと引っ張り出してきて夜な夜な復習し、柱の写真をちらっと見ては「コリント式!」などと叫んで遊んで準備万端にしていたのに、徒労に終わってしまった。豆知識だけが蓄積され、もったいないのでこのブログでそれを使ってみた。
戦争は女の顔をしていない
衝撃的なタイトル… 『アシュリーの戦争』のことをFBで書いていたら、知人が紹介してくれたので読んでみた。第二次世界大戦でドイツがソビエトに攻め入ったときに、祖国を死守しようと自ら前線に赴いたソ連のうら若き女性兵士の回顧録。その多くはティーンエージャー。戦後は「女なのになぜ?」と白い目で見られ、兵士であったことを長い間隠しながら生きてきた人たち。 ウィキペディアを読むと再刊が難しかったことが書いてあった。今こうして読めるのはラッキーなのだな。 やっぱりこの本でも、体が小さくて軍服がブカブカとか、男性用の下着を支給されていたり、軍靴が大きすぎて靴が脱げたとか、トイレや生理の問題もちょこちょこと出てくる。前線に現金を持っていっても何の役にも立たないから、カバンにチョコレートをいっぱい詰めて持って行く女の子の話とか、砲弾が飛び交うようなところで、女らしさを取り戻すためにお裁縫したりするエピソードが切ない。 しかし読んでいて感じる切なさも「ドイツに一方的に侵攻されたソ連」という背景があるからなのかな。逆にドイツ軍に女性兵士がいたとしてもそんなに切なくならない気がする。ここに出てくる女の子たちは「愛国心を強く持つように教育を受けてきたし、(女のくせに)なぜ戦った?と聞かれても困る」と戸惑っていて、その背景も気の毒。沖縄のひめゆり部隊の女学生に対して感じるのと同じような気持ち。同じ第二次世界大戦でも、太平洋側に侵攻してきたソ連の話だと、そこにうら若き女性兵士がいたとしてもこうはならない。 なんというか、大きなものに翻弄されて抗えない運命の中でわずかな抵抗したという構図は、人の心を揺り動かすのに非常に大事な要素であるな、と思った次第。
アカデミー賞 2017
昨日のオスカー授賞式は本当に面白かった。スピーチに時々涙ぐんだり、ガエル・ガルシア・ベルナルが自分のことを「メキシコからの出稼ぎ労働者」と言って「壁を作ること」に反対しているのに納得したり、マット・デーモンやベン・アフレック、スティングのフケぶりを楽しんでいた。ウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイが出てきたときも、「うわぁ、ヨロヨロ!」とテレビの前で喜んでいた。 そのあと、もう最優秀作品賞も出ちゃったし、とテレビのスイッチを消そうとした瞬間に、アレが起きたので、そのあとすぐソーシャルメディアをチェックして、2倍楽しんでしまった。普段、ツイッターは「わけ知り顔」なつぶやきが多くて嫌いだけど、こういうときは楽しめる。 「ムーンライト」の受賞スピーチなんてもう誰も聞いてなかったし、十円ハゲの人が、ウォーレン・ベイティの手からカードを奪ったのも面白かったし、デイミアン・チャゼルの呆然とした顔も、そのあとのライアン・ゴスリンの顔とエマ・ストーンのコメントも面白すぎた。なんか、取り違えが逆でなくて良かった気さえした。
MULTICOLOR COWL
かわいらしいパステル調のふわふわのモヘアの毛糸がセールになっていたら素通りはできんね。糸だけ見てるとホントに可愛いから。そんなものを5玉も買ったけど、どうしたもんかと悩み、とりあえず1玉でカウルを編んでみた。 編んでいくうちにストライプが出てくる段染めタイプなので、普通にボーターに編むか、ストライプを斜めにするか、というところでまず悩み、カウルをひとまきにするか、ふたまきにするかでまた悩み、結局、すごく長い筒型にして斜めストライプにした。若干バカっぽく見えなくもないが、普段からバカな服をよく着ているので、わりと好みではある。 この写真で編み始めと編み終わりをはいだところがバレてるな 残り4玉をどうするか。一生悩み続けるような気がしないでもない。毛糸の衝動買いはやめとこう。 Debbie Bliss Angel Prints を 10.5mm で。輪編みじゃないよ。
ライティングワークショップ
勉強会ということで、カナダのライティングワークショップに参加。英語で書く人たちで、既に書きたいことが決まっていることが前提。ノンフィクション、自伝、小説など書きたいもののジャンルは問わない。今までにオンラインでこういう勉強をしたことは何度もあるけど、それらは「書き方」を学ぶものだった。今回のは「売り込み方」だった。 既に書いたもの、または途中まで書いたものを、しかるべき相手に売り込むときに、30秒ぐらいで、文章でいうと3から5文でバシッと自分の作ったものを説明する「手口」について学んだ。いわゆるエレベーターピッチ。説明する相手はプロなので、「新しいネタ」を常に求めている。 最近、紹介文、あとがきなどを書くことがあって、もともとそういうのを書くのは好きなほうだけど、「好き」と「効果を上げるために書ける能力がある」のは別だと思って、学んでみたいと思っていた。ただ、やっているのが小さいエージェントだったし、「書きたい!」とかクリエイティブなものへの憧れや欲望を扱う商売には怪しいものもあるから気をつけなきゃ、と思っていたら、ただの取り越し苦労だった。 その場でぱぱっと書き上げ、「ハイハイ!」と挙手し、自分の「売り込み口上」をみんなの前で読み上げる。すると講師がすぐに批評し、ほかの受講者も批評する。じゃあ、もうちょっと、今度はこうしてああして、と実習を重ねる。一応受講者はみんななんらかのもの書きで、18歳から80歳までいた。やろうと思えばいつでもどのような形でも世間に作品を送り込める時代なので、プロか非プロかという境目はあまり重要ではない。 目からウロコだったのは、若い子たちが資金集めから作品を公開し、宣伝し、ギャラを回収するところまでクラウドを駆使していることだった。私も日本のとアメリカの似たような場にそれぞれアカウントはあるが、どうしていいのかまだわからないままでいる。というのも、グラフィックノベリストとユーチューバーとミュージシャンが非常に多いので。しかし、ネタが際どくて面白い。今回の受講者は、見た目にはフツーそうで、子育て中のママっぽい人か(『トワイライト』みたいなものを書きそうな人たち)、元セックスワーカー、家庭に難ありの若者、マイノリティが多かった。 翻訳でもそれ以外の文筆作業でも、結局は書いて読んでもらいたい=それで生活したい、ということなので、いつも宣伝しようとは思っている。ましてやフリーランスなので次がくるかどうかは就活どころか死活問題。でも「自分の宣伝をすることは恥ずかしいこと」みたいに思ってしまう日本的な考えがいつもどこかにあり、それにひっかかってしまうと「自慢(私事)と宣伝」の区別をきっちりつける能力が身につかないのでは、と思ってしまう。自分のことはわからないけど、たまに他を見てそう思う。
いらないはずの布でカルトナージュ
久方のカルトナージュ。久しぶりすぎて寸法を頻繁に間違えた。これに入れようと思っていたマトリョーシカが入らない。 布はずっと前に衝動買いしたもので、こんなもの買わなければよかった、と後悔していた。リサイクルに出す前に、カルトナージュに使ってしまえ! とやってみたところ、意外にも気に入った。 色っぽいお姉さんたちの体の部位が箱のあちこちに現れて、いらやしさが倍増。 いい感じでお姉さんたちを出したいと思うと布に無駄が出る。もっとこういう柄の布を買いたい。
花の鎖
最近、手芸部とブッククラブを兼ねていて、もう読んでしまっていらなくなった本などを交換している。交換する時にちょこちょこ本の感想などを語り合うゆるさがちょうどいい。そして、ついついいろんな本をもらってくるけど、これはその一冊。 読んでいて、なぜか昭和なテレビドラマを思い出した。例えば「赤いリシーズ」 なぜだろう。なんとなくエンディングがわかっているけど、わからないふりをすることがお約束のようなところが、昭和のドラマを彷彿とさせる??? それより、清純潔白そうな人物は実は粘質性が高いのではと思う今日この頃。
ハーフタイムショー
スーパーボウルは毎年どのチームが対戦するのかは当日まで知らないぐらい興味がないけど、ハーフタイムショーだけ見ている。今年はレディガガだった。現政権にとても批判的なガガがハーフタイムショーで何かやらかすのではないか、ヒジャブを被って出てくるかもしれない、などと噂されていた。 フタを開けてみたら、あからさまなプロテストはなくて、モモンガみたいに空中を飛んだり、最後にマイクを投げてフットボールとともに落下していくレディガガのパフォーマンスに、わたしは笑って楽しんだ。 わたしの中ではレディガガの株は上がった。いろいろ考えた末、ああいうパフォーマンスになったんだろうなと。あからさまに政治色を出して、さらに国民を引き裂くより、みんながスーパーボウルを楽しめるように決めたのかなって。 なんかこう、トランプ就任式、いやその半年前の共和党大会の頃から、イベントで歌ってくれるセレブの選択に時勢が反映されている気がする。カルチャーのメインストリーム(LGBT、女性、有色人種、移民)が、今の政治のメインストリーム(政権を握っている人たちとそれを支援している人たち)を否定しているようでいて、否定されつつもある。「自分が属する場所」を失ったり否定された浮き草のような人生を歩んできた人たちが、自分の帰属場所をがっつりと守ってきた人たちに押し返されているような、そんな感じがする。共和党大会やトランプ就任式に選ばれた芸能人に、世間は「え?」という反応をする。 去年年末あたりのニューヨークタイムズに、地域別の人気番組のリストが出ていたけど、トランプ支持者の多い地域では「何ですかそれ?」という聞いたこともない番組が大人気だった。SNLや政治風刺をやっている夜のコメディ番組もサウスパークも、そういう地域では人気がない。それにHBOなどの有料ケーブルはこういう地域では視聴者が少ないらしく、沿岸部の都市に住む視聴者の好みに合わせて番組が作られているということだった。 ちょっとたとえが古いけど、「グリー」でカート(ゲイ)とメルセデス(黒人の女の子)が「私たちがカルチャーを作ってるのよ」と言いながら殴り込みをかけるシーンがあったけど、そういうムーブメントに今反発しているのが野球帽を被ったダサそうな人たちなのだな、と構図はイメージできる。そのうち人権派弁護士とかを笑うコメディ番組が主流になったりして… 今トランプ政権が鎖国的な移民政策を取っているけど、「わたしの親も移民だった」と誇らしげに言いながら反発している人を見ると、わたしはちょっと居心地が悪くなる。別にそれが嫌なわけじゃないけど、そういうことを堂々と言えるのはすっかり米国市民になっているから。移民の中には永住権とか就労ビザしか持たない人も多い。納税もし何年もアメリカで暮らしていても選挙権がないから、投票によって意思表示をすることができない。だから一番最初に槍玉にあがっているのを知っていると思う。彼らに代わって声をあげて反対しているのはグローバル企業で、トランプ支持の人から見れば「ふーん、やっぱりな(そんなに外国人を雇っていたんかい)」という話のように聞こえるのではないかと、ちょっと心配。 その立ち位置の不安定さ、里帰りなどであっちこち外国を出入りするアメリカの移民に対しては、「国家安全のため」という大義名分も成り立つ。そういう不安定な立場の人と、アメリカがダメならどっかの外国に行って働くだけよ、と言えるグローバルな人たちが結託し、ずっとアメリカに根を下ろしている人たちと対抗しているっていう感じなのかな…… ああ、長文になってしまった。今日はヒマだから。
LA LA LAND 3
LA LA LAND、3回目を見た。3回とも涙した。4回目を見てもいいとすら思っている。やっぱり大画面で見ないと面白さが半減するので。 しかしどうやら若い人の反応はそれほどでもないようで、「いい話だけど、別に何かが起きたわけではないよね」という感想を持つらしい。その意見が主流派なのかはわからないけど。 「何か」とは地球がエイリアンに攻撃されるとか、裏切りのどんでん返しでシーズン2に悪者が善玉になって戻ってくるとか、そういうことなのだろうか。確かにそういう意味では何も起こらないけど。 映画やドラマは虚構の世界だけど、いかにもありそうな、共感できそうなものを喜んで見る人と、絶対あり得ない壮大な絵空事の中に入り込める人がいる。LA LA LANDはミュージカル映画だから、どっちの要素も入っているけど。 同じ世代の人と話していて、この映画はやはり中高年狙いなところが散りばめられている、ということで合意した。そもそも「もしもあのとき…」と振り返って想像できる人生の分かれ目を経験していないとわからない「切なさ」のある映画ではある。 あと、個人的には、オーディションに落ちる経験をしているので、あの女の子の気持ちがよーーーーーーくわかる。そして、大きなチャンスを掴んでもいないので(小刻みには掴めているかもしれないけど、是非あなたにやってもらいたい、というようなものは一切ない)、あの男の子の気持ちもよーーーーーくわかる。私もLA LA LANDの住人なのだ。
