管見妄語などなど

何を今更、な3冊を読んだ。 『チョッちゃんが行くわよ』 発売当時千円だったものを、二千円ぐらい出して買ってしまった。それしか選択肢がなかったから。ドラマ化されているし、内容は知っているのだけれど、あらためて読んでみると、精神的余裕があることの強さをひしひし感じる。 管見妄語で『始末に困る人』『グローバル化の憂鬱』 今から数年前の時事ネタコラムを読んで虚しくもあったが、藤原正彦の暴言には同意するところも多いし、笑った。 大きな声では言えないけど、今世の中を席巻しているMeToo系の魔女狩り的な部分がイヤで、カトリーヌ・ドヌーヴが声明を出したとき、「実はあたしも同じように感じてた」と思ったところ、彼女が即刻非難を浴びていて、共感を心の中に仕舞い込んだとこだった。 アジズ・アンサリが一晩デートした女が、デートの詳細を赤裸々に暴露した記事を匿名で出していたので、読んでしまった。女は30前後ではないかと思われる。あの夜、女は彼と肉体的関係を持つのがイヤだった、私はノーと意思表明したつもりだったのに、という内容で、「じゃあ、あんたは男女の駆け引きを何歳になったら学び始めたいの?」と素朴な疑問が湧くのを禁じ得なかった。強引さは媚薬だし、人の道徳観など、砂の上に引いた線でしかない。 一応書いとくけど、たとえば、今アメリカの女子体操界で明らかにされつつある大事件は、あのアスリートたちにとって本当に痛ましいことだと思う。

あの頃&記憶の隠れ家

友達に教えてもらってから武田百合子が好きになった。それまでは彼女が誰なのか知らなかった。以来、いろいろ読んだ。既に亡くなっている人は、後から好きになっても著作が増えないのが悲しい。そういう意味でも、武田花の英断はすばらしい。 この本は表紙がとても美しい(表紙カバーを取るともっと美しい)。リバティプリントを拡大したみたいになってる。ふだん電子書籍ばっかり買っているけど、これは中身も特別なので、やっぱり永久保存版として自分用に買う。表紙って大切だよなぁ。 そして小池真理子。「刺繍の家」の家の中の描写が自分のことを言われているような気がしてトホホだった。でも、手芸をすごくやっている人の「狂気」はうまく掴んでるな。でも、同じようなノリの話ばっかり収録されているから、「どうせドッキリさせるんでしょ?」と最後の方は最初から思いながら読んでしまって、面白くはなかった。一気読みしないで、時々1編ずつ読めばよかった。 どっちも、圧倒的に女性読者に人気のある人なんだろうな。

天使は奇跡を希う

ライトノベルを読んでみた。地方の高校生ライフはこんなもんだったな(学校と家との往復)、と懐かしかった。世の中が変わっているように見えて、別にそんなに変わってないんだな。ヒマを持て余し、自分のことばっかり考えている高校生が言いそうな表現が満載なのも、面白くもあり、オバサンは「おいおい!」と思った。 天使を絡めた純愛の設定はですね、私が大好きだったアメリカのドラマ「Drop Dead Diva」に重なる部分が多くて、それゆえに「Drop Dead Diva」のほうが断然いい!と思ったのでした。少女漫画風ドラマ、アメリカだと「チックフリック」と言われているドラマや映画だと、こういう一度死んで「天使」になって蘇るようなお話は、一方的な女性目線(妄想)で語られることに底知れぬ意義があるのです。故に男性キャラクターは一面的なのです。 でも、なんか、このお話は妙に中性的で(←今の高校生は中性的なのかもしれない)、スマートでピュアそうな話で、面白いとこもあるけど、手垢はついているかんじなところが、二次作品を狙っているかんじがするところが、いかにも今どき。トロントで夏から立て続けにライティングの授業取ってたけど、若い子は、すぐに映像化できそうな同じようなものを書いていたし、講師もそう言っていたので、トレンドなんだと思う。 なんかわざとらしい、と感じたのは風景と町の描写でした。基本、このお話は、地方であればどこでも成り立つのです。ライトノベルであっても、「そういう町ありそう」「これは私の町かもしれない」と思わせるものがあれば、もっと普遍性が高まったのに。 「Drop Dead Diva」の場合は「LA」が放つイメージを利用しつつ、撮影は全然LAじゃない。LAっぽいイメージを利用して視聴者に勝手にいろんなことを想像してもらう作りになっていた。 そこでなければならない、という内側から醸し出すものがなく、無理矢理「なんで?」とすら思わせる書きっぷりに私には思えた。ここまで具体的に風景が限定されていなければ、素直に受け止められたのですが、なんか「誰かに頼まれた?」と胡散臭く感じた。そもそも海に天使の設定に、天使と悪魔と神社の設定に、おばさんは説得力を感じなかったぞ! 神社なら天狗やろ!  余談:一般読者向けではないけど、ブックレビューも私の仕事の1つなので、もしも口頭で尋ねられたとしたら、という設定で、それっぽく書いてみた。

The Heart is a Lonely Hunter

夏に取っていたライティングの授業で冒頭を読んで、面白かったから、本買って続きを読んでみた。邦題は『心は孤独な狩人』。そのままにストレートに訳されてるのがいいな。英語で読んだけど。 1940年に出版された本だから、話の設定は古いけど、そんなにアメリカ(南部)は変わっていないような気がする。世の中が一巡して、2017年にも当てはまるような気がするのかも。それとも、名作だから、いつ読んでも「今にもあてはまる!」と思ってしまうのかも。ちまちました世界で起きている話なのに、ちっともちまちましていない。登場人物がみんな魂を求めて追いかけているから。 社会全体を憂いていてそれを「変えたい」と思っている人は、どこか人を見下している。特に自分の意見に与しない人を「わかってない」みたいに言う。そういう類の人と、自分の身の回りのことだけを一生懸命に守って生きている人が、ぐちゃぐちゃ一緒になっているところが好き。 でも、読んだあとは落ち込むな。 マッカラーズが50歳で亡くなっている、という事実も落ち込ませる。

黒柳徹子の本

黒柳徹子ファンなので。不登校になったとか、出社拒否が続いたとか、そんな経験のある人には『トットちゃん』を読んで救われたとか、「休んで『徹子の部屋』見てた」と言う人が多い。私もそう。似た者同士は惹きつけ合うのか、「だよね」「やっぱりね」となる。 最近、本人が高齢になって、半生を振り返るドラマが続いているせいもあって、色々と著作を読み返したり、買ったりもらったりして読んでみた。 武井武雄のこのピクチャーブックは、絵がきれいなのに、文章は黒柳徹子にしては毒が強め。あとがきで飯沢匡が「黒柳徹子にはゴーストライターがいるに違いない」という当時の世間の噂を正面切って否定している(40年ぐらい前の話だけど)。ファンであれこれ彼女の著作を読んでいるとわかるけど、本人が書いている(見たわけじゃないけど)。 徹子の部屋の淀川長治ゲストの回だけを集めた本もすごく面白い。 でも、いくらファンでもそろそろ彼女自身のネタには飽きてきたので、彼女が世の中のことをどう思っているのかを書いた本を出してほしい。本人も報道に興味があるって言ってたし。たとえば、これぐらいのレベルで。 これ、本を開いた時にフォントサイズがあまりにも大きくてびっくりした。読者層は老眼鏡率が高いよね、きっと。90歳超えても佐藤愛子は変わらない。

When We Were Orphans

カズオ・イシグロをまた読んだ。これ(も)面白かった。 この方は、やっぱり日本人的(?)ディアスポラを描きたい人なのではないかしらん。戦後に海外に出た日本人というのは、ある時期に何か事件のようなものが起きて、一斉に多くの人が祖国を失う紛争難民みたいなタイプの民族的ディアスポラじゃなくって、海外に出たのは非常に私的な理由でありながらも、その背景としては個人を超えたもっと大きな時代の流れのなかで、ある種のディアスポラを経験する。だから、他人から「自分で勝手に外に出てったんだろうが」と言われてしまえば、それでおしまい。どこかの政府や団体が介入することもない。カズオ・イシグロ自身がおそらくそうだし。彼の場合は親についてイギリスに渡ったのだけど。 でも「自分で勝手に外に出てったんだろうが」では、想像力というか共感力がなさすぎる。結局は「拠り所がある」と思い込めるほうが幸せなのだろうけど、「拠り所」というのはいつ、何時、どんな形で失うかもしれず、失いかけてから取り戻すこともあるし、「あるという思い込み」がふっと薄れたりすることだってある。「国」というくくりだと想像できないなら、「村」とか「家族」に置き換えるといいかもしれない。そういうくくりの端にいる人ほど、共感できると思う。 そういうことを物語るための設定が、カズオ・イシグロの場合、ちょっと笑ってしまうほどとても壮大なところが、とても大好き。

聖の青春

万感胸に迫る思いで「聖の青春」を読んだ。同世代というのもあるな。村山聖が好きだったボストンの曲をずーっと聞きながら読んだ。私もあることをきっかけにほぼ自分の好きなことだけをして生きているけど、常に死を身近に感じているわけではないので、「生き急ぐ」ことがなく、ダラダラしている。 映画も見たけど、やっぱり映画だと方言の問題(広島弁と関西弁のダブルパンチ)と、本人がかっちょよくなりすぎるので、本のほうが面白かった。映画は映像と音声が勝負なんだから、そこんとこなんとかならないのかしら、と思うけど難しいのかな。 実は、映画で聖役だった松山ケンイチにそっくりな中国人の男の子がライティングのクラスにいて、昨日授業の後、「ちょっと見せたいものがある」と言って引き止め、スマホ画面を見せたら、ちょっと喜んでいた(一応、松山ケンイチだし)。しかも「将棋」を知っている子だったので、話が早かった。 羽生善治の本もいくつか読んだけど、棋士の考えていることを読むのはとても面白いね。この本は本人が書いているわけじゃないけど。

クラスメートとカズオ・イシグロについて

カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞した日にライティングのクラスがあったので、「彼だったね」と話をクラスメートに振ってみた。そしたら、「読んだことない」とか、彼のジャパニーズな名前から、「やっぱ、英語圏の作家ばっか、読んでちゃダメよね」と言うので、「いやぁ、イギリスの作家だけど」と言ってみたものの、そこから、村上春樹と並べて話が始まってしまった。村上春樹と一緒にしてほしくない、とかそういうのじゃなくて、クラスメートは村上春樹の作品を「翻訳作品」として読んでいるから、「違う」と私は思っただけだけど。 一応、クラスメートのために言っておくと、たまたまイシグロ作品を読んでなかっただけで、みんな信じられないほどの読書家です。 日本でも、カズオ・イシグロの日本とのつながりを強調して、たぶん日本人がノーベル文学賞を取ったぐらいの喜びを感じていると思うけど、たぶん本人は「どこに属しているのかわからない自分」をよく知っているので、困惑していると思うな。『日の名残り』ってまさに、どこに属しているのかわからないままの自分を受け入れている人の話だし。

MONKEY BUSINESS BOOK EVENT

少し前だけど、MONKEY BUSINESS ブックイベントに行った。トロントに来てからはほぼ欠かさず行っている。毎回、翻訳者の柴田さんからサインをもらうのが楽しみなんだけど、今回はサインをしてもらいたい柴田さんの本が家になかった(持っているものにはサインが既にしてある)ので、村上春樹が柴田さんといっぱい対談している村上春樹の本を持っていこうかと悩んだが、いくらなんでも失礼だなと思って止めた。 今回のブックイベントはどうしてなのか、内輪の人が多かったからなのか、Q&Aで「質問です」と挙手しておきながら、たっぷりとオレ語りする人が皆無だった。質問もコメントもよかった。そのことをカナダ人作家の女性と話していたら、手慣れた司会者の中には「質問ですよ、質問を短めにお願いしますね」と予め釘を刺す人が多い、と言っていた。 文学好きだけが集まったのか、余計なことは言わない主義の人が多かったのか。全体的に良かった。行ってよかったって毎回思ってるけど、今回はいつにも増してそう思うぐらいベストだった。もしかしたら、これが最後になるかもしれないらしい。できればならないでほしいけど、何かしら形を変えて残ってくれたらいいな。 楽しかったので、いつもなら行かない懇親会にも足を運んだ。MONKEY BUSINESS は日本とカナダの作家をタイアップさせたものなので、どっちの作家ともいろんなお話を聞かせてもらったし、私のくだらない話も聞いてもらった。 一番すごく驚いたことは、日本の作家さんが翻訳もやっているというので、「あ、私もです」という流れになって、「何を翻訳したの?」と聞かれて答えたら、「それ、読もうと思って持ってる!」と言われたこと。友人家族以外では初めての出来事だったので、もうトロケそうなぐらいにうれしかった。 文芸翻訳がやりたいけど、実際に仕事に来るのは社会派なノンフィクションや記事が多い。でもそこまでたどり着いただけでもよしとすべきなのかな。ここから先はどうやって営業すればいいのかもよくわからない。あのとき聞いとけばよかった。 折角のサイン本を濡らしてしまった。

女のいない男たち

村上春樹の好きな海外作家っぽい作品集で、けっこうどれも好き。 「男のいない女たち」というのはどんなもんか、ぱっと頭に浮かぶけど(わりと生き生きしてる女たち)、「女のいない男たち」は具体的なイメージは浮かばないね。私が女だから? この本に出てくる「女のいない男たち」はみんな寂しそうだった。 日本でも町の書店が消えているというニュースを読んだけど、個人商店を守りたい、というのと「活字離れ」を憂いているニュースだった。だけど、ネットに張り付つく感じで読書をしている私には、書籍が英語だろうが日本語だろうが、ネットでどんどん買えて、オンラインの読書コミュニティで人の感想を斜め読みして、ポチポチと「いいね」し合ってる今の時代のほうが、読者にはとても楽しい読書体験ができると思う。サイトによっては、そこで自分の創作を見せあえる。「一部のマニア」だけだと思うかもしれないけど、そういう人が国境を越えてつながっているのでとても楽しい。日本だったら文学フリマがあるけど、たぶんカナダやアメリカは、ネット上でそれをやっているんだと思う。 編み物のソーシャルネットだってそうだもんね。今や、北欧ニットデザイナーの編み図をPDFでダウンロードして買えるんだもん。そして、編みあがったら、作品の写真をアップしてみんなに見せる。自分でアレンジしたり、指定糸と違う糸で編むとどんな感じになるか見れるから、本当に楽しい。 結局、読書サイトもアマゾンなどの大手が運営しているので、「コアな読者」から情報を集めているし、そこからポチっとすればアマゾンなどで買い物できるけど、サイトによってはポチリ先が複数あるとこもある。 10年ぐらい前のアメリカの統計の話だけど、アメリカの読書人口は全体の5分の1しかいないのに、書籍の売上を考えると、その5分の1の一部がめちゃくちゃ本を読んでいる計算だった。有料コンテンツにお金を払ってもかまわない層や図書館ヘビーユーザーが本を読んでいるんだと思う。それはたぶんネットが存在する前からそうだったんだと思う。周辺の読書好きさんたちを見回してもそんな気がする。本は国民全員が読むものではないんだと思う。