『火花』をやっと読んだ。関西圏で育った私には、関西の言葉で会話するときの、どことなくねっとりした感じ、心の垣根が低くなる感じがわかる。実は、読むまでは期待していなかった。まどろっこしい言い回しがいっぱいなのに、すいすい読んでしまったし、共感できた。 やりたいことがあって、それで食べていきたいのに、芽が出ない、なんてことはよくある話。結局、人並みの暮らしを選ぶまでに様々な感情が入り乱れるわけだけど、又吉はそれを書き残した。「又吉にしか書けない話」とよく耳にするけど、本当にそうだと思ったし、自分がどっぷり浸かっている世界を小説にするのは、精神的になかなか難しいことだと思う。 同じ文藝春秋に、今くるよが書いた「いくよちゃん追悼文」が掲載されている。そっちは中学生が書いたみたいな文章で、彼女の素直な気持ちがドバーっと溢れ出ていて、涙腺が緩んだ。 又吉には又吉の、くるよにはくるよの文体がある。ふたりとも世間に人となりがある程度知れているから、それぞれの独特の「声」が字面から伝わってくる。
Category: 読書
Memoirs of a Geisha
仕事用のサイトで書いたけど、ま、よかったら読んでみてください。 https://kyokonitta.com/2019/06/26/memoirs-of-a-geisha/ これを書くのに映画版を見たけど、違和感が満載で最後まで見られなかった。「置屋」のお母さんが桃井かおりだったので、彼女の英語が聞けます。
堀文子
徹子の部屋ウォッチャーなので、あの部屋の後ろに掛かっている「アフガンの王女」はいつも見ている。あれを描いた堀文子が今年春亡くなったので、彼女の本(あるいは彼女についての本)をいろいろと読んでみたら、とても面白かった。黒柳徹子同様、山の手の言葉を駆使し、育ちのよさのオーラを放っているが、芯が強くてとても面白い。日本が嫌で飛び出したくせに、海外生活をきっかけに日本の良さに立ち返っているところも共感できる。 この間読んだ「香華」の表紙も堀文子だった。 堀文子は、なんでもかんでも「かわいい」の一言で済ます、語彙の少なさに怒っていた。今、NHK World に「KAWAII International」という身も蓋もない番組があることを、彼女が知ったら、悶絶死したに違いない。もう亡くなってるけど。 彼女の「群れない、慣れない、頼らない」は、群れると必ず飛び出てしまう私のような人にとっては力強い言葉。できれば彼女のように暮らしてみたいけど、「頼らない」の部分が結構難しい。
「このままだと、日本に未来はないよね。」
ホイホイ気軽に外出できないので、アマゾンでポチポチポチポチ、指先が私の購買意欲を抑えきれなくなっている。 ひろゆきの言動には少なからず興味を持っているのでブログは読んでいるけど、初めて彼の本を買った。「ものすごい高名な識者」が世界を俯瞰して書いた本より、彼ぐらいの存在の人がやってくれたほうが読みやすい。ブログと同じトーンで書いてあるし。「高名な識者」だとそれだけで発言が担保されがちだけど、ひろゆきぐらいの存在だとファン以外の人にはどう受け止められるのかな? 内容の大半は、海外メディアを普段から追っている人だとか、孫正義の発言やらソフトバンクの海外の動きを見ている人には、びっくりするようなことは書いてない。「キモくて金のないおっさん問題」について言及してるとこが一番面白かった。 最近仕事で読んだ本には、アメリカ以外の国で起業した人々が市場の大きなアメリカを狙って進出すると、既に成熟しているアメリカ企業に阻止されるが、中国をはじめ、アジア圏の大企業と組むことで対抗する様子が書かれていた。その事例は、一歩間違えれば「キモくて金のないおっさん」になっていた人の成功例で、その人にとって幸運だったのは「英語も流暢」だったことだと私は思ってしまった。 ほしよりこの本、面白かった。最初このタイトルを見て色めきたってしまった。何のことかというと、20年ぐらい前に「Sam & Ham」という短い話を英語で書いていたから。タイトルだけがニアミスで中身は全然違った。
大地の子1&2
ドラマ版を見てから本を読み始めた。 ドラマの影響で、脳内で顔が上川達也だったり仲代達也だったりするが。 今「中国残留孤児」と言われてもピンと来ないほど、時間は流れている。藤原正彦だって、あのお母さんの体力が尽きてしまっていたら、逃げ遅れ、中国残留孤児になっていたかもしれない。それに、藤原家はソ連との国境ギリギリの開拓団村にいたわけではないので、幸運にも日本に戻れたのかもしれない。 ドラマとの一番の違いは、グロいことも本には容赦なく書いてあることかな。戦争(中国の内戦も含めて)の凄惨さ、文化大革命の愚弄さ、日本人孤児へのいじめや虐待のしつこさもそうだけど、中国の政争と、日本の経済界の力関係の描写もすごく緻密。だから全体的にグロい。当時の日中鉄鋼業界の裏話も、技術用語がいっぱいで読んでるうちにめまいがしそうだった。面白いけど。 日本鉄鋼業界のドン「稲村」の世代の日本人は、中国に対して申し訳ないという気持ちがあるって、この本に書いてある。山崎豊子自身も『大地の子』の執筆作業は日本人として贖罪の気持ちに突き動かされて書いたと言っていた。そういうことを今改めて考えてみると、戦後ものすごく時間が流れたと思うなぁ。中国はGDPではとっくに日本を追い抜いているし、アメリカを抜く日も来そうだし。 この本の国共内戦を書いた部分に盗作疑惑があったとネットで読んだので、「ここら辺のことかしら?」と読むのもちょっと楽しかった。ちょうど、百田尚樹のウィキペディアからのコピペ疑惑が騒がれていたし。ところでウィキからのコピペは盗作にはならないの?(素朴な疑問) 『大地の子』はあと3と4が残ってる。長い。 電子書籍の表紙は素敵じゃない...
無限の網
芸術家として揺るぎない地位を築いてから書いたものだからなのか、それとも草間彌生はいつもこういう突き抜けた自信を持って執筆するのか、よくわからない。ずっと前に読んだ『水玉の履歴書』より尖っていて面白かった。 比べるのはおこがましいけど、何となく私にはわかる気がする。翻訳を仕事にしようと思ったとき、英語と日本語の出版物を沢山読む、文章を毎日書くなど、自分に課したことがいくつかあった。でも、まだ結果が出ていない状態でそういう努力をしていると、「翻訳なんて、他人の書いたものを違う言語に置き換えるだけで、自分の考えを執筆するわけじゃないから執筆業として劣っている」とか「無理して英語の本を読んでいるに違いない」とか「毎日ブログ書いて暇を持て余しているに違い」「ただのブログなのに読者を意識して書いている」などなど遠慮なく批判されてしまう。反論させてもらうが、そもそも、一般の人が1時間ぐらいかけてやることを5分ぐらいでやれるから、職業として成り立つわけなので、読む・理解する・書くのスピードをあげて磨くのは、野球選手のバッティングやキャッチボールと同じなのだ。 で、やっと結果が出始めて、人に「翻訳やりたいけど、どうすればいい?」と訊かれれば、やっぱり自分がやってきたことと同じことを習慣づけるのが一番、と自信をもって言える。この間、エージェントに「仕上がってくる翻訳文って、訳者によって全然違いますか?」と訊いてみたら、「全然違う」と言っていた。「誤訳」というアウトはあっても、それ以外は「個性」らしい。その「個性」を出版社に気に入ってもらえるかどうかという難関がさらに待ち受けているのだが。 話は変わるけど、数年前、東京でアートの展示会に行き、草間彌生の画商をちらっと見かけたが、すごくお金持ちそうだった。まあ、貧乏な画商というのはいないのかもしれないけど。 全然関係ないけど、私も水玉が好きで、昔、某SNSで「毎月第一火曜日は水玉の日にし、水玉模様のものを見につける」みたいなことをやっていた。ある日、グループの人に「主催者のくせに水玉デーに水玉を身に着けていない!」と告発されてしまったが......
芥川賞2作
これも入院中に友達が持ってきてくれた。今年の芥川賞2作が載ってるので読んでみた。 なんか2つともどこかが似ている。「私小説」よりももっと「私」のことばっかり。主人公ではない人たちも自分のことしか考えてない。私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私...... 「私」が分身術で増殖しちゃっているか、鏡の部屋に住んでいるか。ま、それが現代なのかもしれないが。周囲の描写もサーバールームだったり、ジムだったり、ホテルだったり、安アパートだったり、結構無機質なんだな。 あなたの人生にはあなたしかいない...? ひょっとして情緒が育たずに大人になっちゃった?(と登場人物に言ってしまいそう)。面白くなかったわけではないんだけど、閉塞感をみっちり味わった感じに近いかも。
タイワニーズ
入院中に友達が持ってきてくれた。ちょうどいい具合に、転倒した日に日中関係の書籍の翻訳を終えたばかりで、中国、台湾、韓国の近代史について予備知識がまだ頭の中に残っていた。同時進行で読んでいた『大地の子』で、ちょっとよくわからないと思っていたところも、「なるほど!」と謎が解けた。 蓮舫、リチャード・クー、東山彰良、温又柔、ジュディ・オング、余貴美子、安藤百福、羅邦強(551の豚まんの創業者)、陳舜臣、邱永漢と、台湾人(またはかつて台湾人だった人)たちのルーツが、これでもかというくらいに細かく書かれている。私など、英語の勉強をしているせいで、普段読むものは英語圏の出版物が多く、台湾の歴史をじっくり読むことなどほとんどなかった。だから、この本はとっても面白かった。 陳舜臣は私にとって昔の人だったので「日本語で作家として活動していること」について疑問を抱いたことすらなく、バカな私は中国のことをいっぱい書いているから「陳舜臣」というペンネームを持った日本人が書いているのかな、とすら思っていた時期もあった。さすがに、東山彰良ぐらい「今」の人になると、どうして日本語で執筆活動してるのか気になる。自分の作品をより多くの人に読んでもらいたいのなら、中国語で書いたほうがいいに決まっているのに、敢えてそうしていないわけだから。 実は、なんとなく気持ちがわからなくもない。私も英語で文章を書くことがあるけど、「自分語り」をするにしても、そりゃーもー、精神面からして違うから(簡単に言うと、自分と距離が置ける)。 内容はとても面白かったんだけど、この著者はちょっとロマンチスト気味? 時々「XXさんのこの言葉に感銘を受けた」と書いてあるところで、なんか陳腐な感じがした。私が冷めすぎ?
続明暗
読むのに時間がかかりそうだったので、まとまった時間があるときに読もうと思って積読しといたのを、やっと読んだ。途中、津田にイライラしつつも、楽しんだ。水村美苗が書いているから、情けない男を見限る瞬間の「女性」の視点がよかったな。『明暗』に何が書いてあったかを忘れてしまっていたので、前半に何があったのかを想像しながら読んだ。ま、でも漱石の書いた前半に戻って、津田にイライラさせられるのが嫌だから読まないと思う。 嘘を突き通せると思い、謝罪のタイミングを見誤ると大変なことになる、という落ちが往生際の悪い津田にピッタリ。 すごいなぁ、勇気あるなぁ、漱石の未完の小説の結末を書くなんて。比喩が漱石っぽくてよかった。
Bad Feminist
仕事ブログのほうに書きました。よかったら読んでみてください。 https://kyokonitta.com/2019/03/14/bad-feminist/
