風立ちぬ・美しい村

水村美苗がどこかで「堀辰雄の『美しい村』のような舞台で小説を書きたいと思った」というようなことを言っていたような記憶があって、前回日本帰国の折に本屋で買ってきた。宮崎駿の「風立ちぬ」のおかげで簡単に手に入った。話の内容はもちろんかなり違うけど。 新緑に卯の花のような話であった(カバーデザインがまさにそれを言い当てている)。特権階級的な香りが風に乗って八ヶ岳の山麓を吹き抜けるような話であった。アメリカのお笑いシーン的に言うと「ホワイトピープルズ プロブレム」であった。嗚呼八ヶ岳に行きたい。 米原万理の「ロシアは今日も荒れ模様」も読んだけど、これはゴルバチョフ&エリツィン時代の権力闘争こぼれ話なので、今更20年前のロシアの政治について読んでもな… だった。唯一「反アルコール・キャンペーン」については、数年前にも「ロシアの若者がビールをジュースのような感覚でがぶ飲みするが、あれにはアルコールが入っているから注意を喚起している」というニュースをラジオで聞いたことがある。 最近ちょっと昔の本ばかり読んでいる。新しい人の本を読もうかなと思うけど、ちょっと昔の本のほうがビンテージものの探索に似てなんか面白い。

孤高の人

藤原正彦つながりってことで、その父、新田次郎。「山の人」のイメージが強かったので、きっと私が喜んで読む話ではない、なとど思い込みをしていたが、それは間違っていた。 冒頭で既に結末が明かされているので、どのタイミングで?誰と?コイツとか?あの人とか?などと余計な憶測をしながら、急かされるように読み耽った。下巻中盤以降はもうツライ。「そこではっきり言わなければダメ!」と本を握る手に力が入った。力みすぎて顎が痛い。 この話でいうところの「孤高の人」とは、単に自己の世界に頑なに閉じこもり、孤独を厭わない人をいうわけではない。仔細に物事を調べ上げて未知のもの理解し、自分を取り巻く雑多な情報から結論を導き出すことができ、他人に容易く感化されることなく、自分を距離を置いて見つめることができ、自己責任で行動が取れる人をさす。そして一般に誤認されがちな性質、たとえば孤高と頑迷、上下関係と隷属関係、一徹と執拗、物静かさとテレなどなどを巧みに対比させることで、ますますその「孤高さ」が光っていく話だった。特に、不安がとりまいていた第二次世界大戦突入前の話だから、頑迷な人や世間あるいは時代のネタには事欠かない。 最近、ネットでニュースを読んでいると、関連記事がズラズラと表示される技術のせいと、時勢もあって(アジア情勢とか)、「私は煽られている!」と感じることがとても多い。だから「携帯を持たない」ことを貫いている友人・知人を、ネット世界との付き合い方が上手い、現代の孤高の人と尊敬して止まない。 先日、文芸翻訳に造詣の深いカナダ人の真ん前で、ざっくばらんに話をする機会があった。自己アピールできる状態ではあったが、やっぱり私には直球は投げられない。ライ麦畑の2つの和訳の話と、本人が目指しているかどうかは別の話として、村上春樹が本を出すたびに商機を狙った人々(企業)が諸手を挙げて褒めちぎる(というか売る)様子がその経済効果は認めるけど嫌いだとか、村上春樹が築いた財産の行方の希望的観測とか、私の柴田元幸さんラブについて語らせてもらった。しかし、一夜明けて、やっぱり「なんかあったらお手伝いさせてください」ぐらいの一言はしっかりと目を合わせて言えばよかったのではないか、などと後悔もちょっとしてみた。もう遅いけど。

決定版 この国のけじめ

今、気になる人は藤原正彦。 フェイスブックで理系に進んだ友人たちから、藤原正彦をはじめ、彼の家族の著作を色々と薦めてもらった。そして別の友人からこれを借りた。 これには、ベストセラーになった「国家の品格」への習作ともいえるエッセイが収録されていて、これまでに読んだ「日本人の誇り」とか「祖国とは母国語」と同様、「祖国愛」がここでも盛んに言われていた。 立て続けに藤原本を読んだので、何かが私の心に刷り込まれてたのかもしれないけど、ディズニーの「魔法にかけられて」(Enchanted)のことを急に思い出し、また観た。藤原さんの言っている祖国愛は、この映画の「真実の愛」と似ているような気がする。お互いのことを知るためにデートを重ね、理解を深め、思考を巡らし、理屈をこねて、品定めをし... という用心深いプロセスがまかりとおる世界では、真実の愛はちょっとこっぱずかしい。でも真実の愛を求めている人は実は多い。 藤原さんのいう「祖国愛」議論の一部だけど、なんでも経済中心に考えるのは間違っている、と彼は息巻いている(特に教育の分野で)。私もそれには同意する。 でもそこまでかも、同意できるのは。 それ以外のエッセイはやっぱり面白かった。

テレビ消灯時間3での発見

ナンシー関の本をどんどん人から借りて読んでいるうちに、ニットネタに当たった。時代から考えて当然、広瀬光治。 時々ニット界で「男」がちやほやもてはやされる。今だとアルネ&カルロス、スティーブン・ウェスト。もう少し古い世代だと、ケイフ・ファセット、そして広瀬光治。他にももっといるかもしれない。 最近、編み物の動画を見ていると、アメリカ中西部出身っぽく見える白人の眼鏡かけた醜男がオネエ言葉で、全然可愛くないニットを教えているか、売っている広告を見かける。そしてそんな彼を取り巻くニット好きな女たち。この広告に今一番ムカついていて、クリックしたくない。ほかの世界だと歯が立たないけど、ニットの世界なら「希少価値」をウリにブレイクできるかもという算段が明らさま。何でもアリな敷居の低さが編み物のよさとはいえ、アルネ&カルロスも、スティーブン・ウェストも、ケイフ・ファセットも、広瀬光治も、ニット作品はやっぱり一目置かれて当然な「実力」があるもんな(それを好むかどうかは別の話)。 それにしても、ニット界に降臨する男たちは大体がゲイであるというのもあるかもしれないけど、ニット界の女たちに何の抵抗もなく受け入れられ、もてはやされるのは何故だろう。ファンクラブさえある。昨日広瀬光治のウェブサイトをチェックしたら、「ファン募集中」だった。なんとなく「前世代のニット貴公子」というニオイの立ち込めるサイトだった。 話は元に戻って、なぜ男ニッターがもてはやされるのか(日本で)。昔昔の話だけど、スーパーのレジで働く人が「若い男の子がローテーションに入っていると、職場の雰囲気が和らぐ」と言っていたのを思い出した。単に「若い」だけではダメらしく、「若い、人当たりがよい、可愛らしい」などの質を兼ね備えていればなおのことよいのだと思う。女だけだと殺伐とし、バトルが一触即発状態が続く、というような話であった。私もかつて日本でOLをしていた頃、一日の唯一の楽しみが「荷受にやってくるFEDEXの美男子と伝票と荷物の確認をする時間」だった。あまりにも浮ついたひと時だったので、私は、本来なら船便にして安くあげなければならない重い鉄の工具を、FEDEXの飛行機で香港に送ってしまい、送料40万円の請求書を見た上司に「誰だ!こんなことをしたのは!」と叱られたことがある。よくクビにならなかったものだ。 都市部に限った話だけど、北米のニットナイトに行くと、一人ぐらいは男ニッターがいるし、毛糸屋にも男の店員がいたりもする。圧倒的に女が多いけど、少数派ながら男もいる。そういう男たちが「緩和剤」の役割を果たしているかというと、そんな力はなさそうに思う。アルネ&カルロスも、スティーブン・ウェストも、ケイフ・ファセットもそういう役割は負わされてはいないと思う。ただ、北米には広瀬光治的な存在はないと思う。あれは何だろう、宝塚的な要素があるよね。日本にしか存在しえない。 思うに、日本のニット「業界」には優秀な日本人女性デザイナーがたくさんいて、小さなパイを分け合っているというか分捕り競争しているので、煮詰まりやすいのじゃないか。ゲイのニッターならば、いい「緩和剤」だし、新風を吹かしてくれるよね。作品的な新しさより、ニットに対するアプローチへの新しさ、というかさ。 そして、アルネ&カルロスはわざわざ遠方から来日してるんだから、ついでに眼鏡の広告にも出たほうが、絶対にモト取れると思う。 もうワタシ絶対にナンシー関の読みすぎ。

ナンシー尽くし

こんなにナンシー関を一気に読むと、彼女の霊に取り憑かれて、万事ナンシー目線になってしまう。意外と伝染性が高い。 これだけ読めば、もういいだろう、と思ったりもするが、多産なエッセイストだったことをしみじみと思い知らされるほどの数の本が出ている。これだけ読んだらかぶっているネタもあるだろう、と思ったら、そうでもない。 「雨天順延」の大月隆寛の解説がよかった。 でも、これだけ時差をおいて一気読みすると、ソーシャルメディアがなかった時代の話だな、と思う。古臭いっていう意味じゃないよ。「衆目」の位置づけがテレビと週刊誌だけだったんだなぁ... というだけの話。でも、もしソーシャルメディアの時代に彼女が生きていたとしたら、もっと忙しかっただろうね。 注)一番最後のトリビュートは未読。

祖国とは国語

藤原正彦、2冊目。 先に読んだ『日本人の誇り』に対しては、知的環境に恵まれている人独特の高圧的なものを感じて「なんだかね」と思ったのが正直な気持ち。でも、『祖国とは国語』のほうは、前半部分は『日本人の誇り』と似た論調だけれど、もっと柔らかな、作者自身の生活周辺事情を綴ったエッセイも収録されていて、「アラ、こんなに愉快な人だったとは!」と読んでいるほうの私の気持ちも柔らかに。最初にこっちのほうから読めばよかったな。 文庫本の最後には「満州再訪記」というのが収録されていて、これが泣けた。藤原さん一家は満州引き上げ組み。80歳を超えた母親や家族を連れて満州を初めて再訪する話。2002年の「考える人」が初出だから、その少し前に長春を訪ねたのか。 最近我が家では第二次世界大戦の頃のアジアの話をよくする。なぜかよくわからないけど。それで映画の「ラストエンペラー」の話になり(今となっては随分昔の映画のような気がする)、溥儀が清朝最後の皇帝であり、満州国の皇帝であることを、教授がようやく理解した。清朝のラストエンペラーであることは知っていたのだが。国際結婚していて伴侶が北米の人で、さしてアジア通でもない人に、この事実がどれぐらい知られているのか、知りたくなってきた。そんなところに、藤原さんの「満州再訪記」を読んだから、俄然長春あたりに行きたくなってきた。ウチの妹は中国語が話せるので瀋陽には仕事で行ったことがあるらしい。 『祖国とは国語』で、「論理とは普遍性のない前提から出発し、灰色の道をたどる、(中略)そこでは思考の正当性より説得力のある表現が重要である」と藤原さんは言う。妙に納得した。私はアメリカのCNNの国内向けのニュースが嫌い。「普遍性のない前提」から出発するのはいいとして、「灰色の道をたどる」のもいいとして、説得力というよりは、執拗にがなりたて、絶対に相手の意見には屈しないことにより「ニュースのエンタメ性」を高めている。そういうことは誰にでも、子供にでもできることなので、「何とかしてほしい」と思いながらぼうっと見てしまう。というか、途中で口を挟み合うのは、「説得力のある表現」を互いに準備してきていないから、故意にやってるんじゃないの?とすら思う。「たまには黙って人の話を聞け!アンダーソン・クーパー!」とよく思う。

何が何だか(手芸とファンシーについて一言感想)

「ヤンキー文化」を引き合いに出して現在の日本を語る記事を最近多く目にする、という話から、「ヤンキーを公約数的に捉えて面白いことを言い始めたのは、ナンシー関じゃないか?」ということになり、いったんそういう視線でものを見てしまうと、すべてが彼女を元ネタにしているように思えてくる。そんなわけで、今ものすごく内輪で彼女が再評価され、その著作の貸し借りが頻繁。 今借りている「何が何だか」に「日本のほとんどはサンリオとヤンキーで出来ている、と言ったのは誰だったろうか」と書いてあったので、ナンシー関が大元ではないことが発覚した。今日の重要発見。 しかし、それだけにとまらず、「ファンシー」文化のタチの悪さについて言及していた。「ファンシー」とはおしゃれ生活雑誌、子供&一部の大人ファッション雑誌などでよく見かける「カワイイ」文化のことを指すらしい。「カワイイ!」とは「最強の万能感覚」で「複雑な心象を言語化するのを放棄する」言葉であるらしい。手芸文化にも「カワイイ」ははびこっている。きのこ、りんご、森の動物、鳥、にゃんこ、ワンコ、そしてマトリョーシカ… はすべて「カワイイ」の記号だ。 私の好きな番組のひとつ、Portlandiaのかなり最初のほうのエピソードで「Put a bird on it」というのがあった。ハンドメイド文化を茶化して「何にでも鳥のモチーフくっつけちゃえ!」という話で、最後は本物の鳥にグチャグチャにされてしまうのだが、非常に面白かった。「ファンシー」は世界的な現象で、別に害があるわけでもないし、からかいづらいものであるかもしれない。かくいう私もマトリョーシカをはじめ、全体的に「かわいい」ものを代表するモチーフが好きだしな。 でもかわいいものを消費しているだけの時点なら、ちょっと小馬鹿にしたりできるけど、本気で(私のように)誰に頼まれるわけでもなく、せっせせっせと何かを作っている人、「これでいつか何かを作れるかもしれない」とリボンの切れ端などを溜め込んで、家の中の整理が出来なくなっている人たちにとっては、「ファンシー」に便乗させてもらうことは重要である。だって、手芸が趣味な人は「手を動かしている間の幸福感」が重要だから。とにかく何か作りたい。でも最初からデザインしていたのでは作業に辿り着くまでに時間がかかる、折角時間をかけて作るのだから人にウケがよいものが作りたい、ということで「かわいいレシピ」が求められる。作っては人にあげたり売ったりしないことには、家の中にどんどんモノがたまっていくだけだ。回転させるには人に求められることが重要だ。私など毛糸を買いすぎてその収納場所に困っており、毛糸を消費するためセーターを編んだりするが、毛糸がセーターに変身したからって収納場所が増えるわけではない。形が変わっただけ。そしてこれは編みものを趣味にしている人たちの万国共通の悩み。編み物ブログを徘徊してみれば、必ずそういう「悩み」が吐露されているのを目にする。 手を動かしていないと不安になる。 テレビ見ながら手を動かしていたい(マルチタスクしたい) 毛糸を買い込んでしまう。 収納場所がなくて収納オタクになってしまう。 収納しきれなくて半ば強迫的に編む。 手持ちの毛糸だけでは足りない編図を見つけ、また毛糸を買う。 こんなに作ってしまうなら、クラフトフェアに出たほうがいいんじゃないか、とさらに材料を買い込む。 家庭内でケンカになる。 ジャッジ・ジュディを家に呼びたくなる。 手芸に過度にかかわると、生産的なことをしているはずなのに「病んでいるのでは?」と思ってしまう(思われてしまう)。だから、ハンドメイドしている人を「ファンシー」にどっぷり浸かっている人ということで軽々しく小馬鹿にするのは気が引ける… ということでハンドメイドは内輪だけで盛り上がりを見せ、外部者は見て見ぬふりをする、という結果になっているような気がする。アニメが一部のオタクを超えて市民権を得たのと違い、手芸はおそらくずっと隠れたところでしか流行らないような気がするのも、どこか切実なところがあるからかもしれない。 ナンシー関の読みすぎ…かな。

日本人の誇り、などなど

仕事で久々の徹夜だった。「締め切りは土曜日の朝」のお達しの後、音信は途絶えたのだから向こうも切羽詰まっているんだろうな、という雰囲気。いくつか送られてきたファイルの中の1つが、最近IPOに漕ぎ着けたCEOと社長の挨拶文だった。ここに至るまでの様子は一部始終仕事を通じて知っていたし、万感胸に迫るものがあった。きっとこれを抱えて投資を呼びかける行脚に出るのかも。 しかし、超夜型の私でも徹夜は堪えるな。頭がぼうっとする。 最近政治活動に熱心な人に「お前に話したって時間の無駄だ」とズバっと目の前で、何の因果か言われた。その人と直接政治の話はしたことはないので、私のアジアの諸事情に関する考えなど知るはずもないため、本当に急いでいて時間を無駄にしたくなかったのだろうか?と頭の中は「???」のハテナマークでいっぱい。しかし、私は人からチャラついている人と思われがちなので、そこから来る誤解かもしれない。でも人としてもうちょっと大事にしたほうがいいことあるんじゃないのかしらん、とも思った次第。 本の貸し借り頻繁な読書仲間の間でこれが回っていたので、まずは「日本人の誇り」を読んでみた。この歴史観は、この間日本帰国中に、靖国神社の遊就館で歴史の説明を読んだときの、ハっとしたことの理由をうまく説明していると思う。遊就館での歴史説明は戊辰戦争から始まっているから。単に幕末の動乱期に死んだ兵士たちも靖国に祀られているから、ということ以上の歴史の流れがそこには説明されていたと思ったので(←ちょっと記憶が曖昧になってきているけど、ハっと思った気持ちは本当)。 ま、だからと言って、全部に同意するわけでもない。やっぱり私はこういうの読んでも、気心の知れた仲間と感想述べ合うのが限界ね。政治の話は静かに風通しのいい中でないと話すの苦手。

わたしの渡世日記

「いいとも」が幕を閉じるとあって、金曜日は黒柳徹子がテレフォンショッキングのゲストだった。「いいとも」なんてもう何年も見てなかったが、私は実は黒柳徹子ファンであるため、友達がリンクを送ってくれて見た。ナンシー関には「愚鈍」と呼ばれた徹子チャンだけど、まあ私も愚鈍だし「四十路に入ってこれでいいのかな」と心を悩ませているところへ、徹子チャンを見て「80歳でアレだからな」と思うのである。私もトットちゃん並に学校生活に馴染むのに苦労したので、初めてトットちゃんを読んだときはほっと安心したものである。 どんな大人になりたいかと青春時代の深遠な悩みを抱えて読書していたら、黒柳徹子(トットちゃん)→向田邦子→黒柳徹子→高峰秀子という順番で、私はコレでいいんだという自己肯定に至ったという次第。なぜこの人たちだったのかは謎だけど三人は交流があったのでそれぞれのエッセイを芋づる式に読んだのだった。向田邦子と高峰秀子に関しては、ウチの祖父も好きだったらしく、「嗚呼もう向田ドラマが見られなくなるな(飛行機墜落事故で亡くなったときのコメント)」、「高峰秀子は頭のいい女優で一味違う」と言っていたのを思い出す。 この間日本帰国の折にこれを買ってきて読んだ。 ウチの祖父は戦争に行かなかったけど、祖父より若い、特攻隊として空に散っていったような世代の男たちに絶大な人気を誇っていたことが分かる。上巻の最後は戦火の中映画撮影していた描写があって泣けた。

言葉を育てる

これに収録されている林真理子との対談で、「通訳界で西太后と言われる人がいるがそれは英語通訳者で、私は東太后(ロシア語だから)」というような文言に「もしや?」と思ったので記録しとこう。そして知的な対談内容の中、米原さんのファッション&メイクに触れたのは林真理子だけであった。勇気あるな、林真理子! 「言葉を育てる」は言葉だけの話ではなかった。母国語と外国語の両方を知ることで、それぞれの言葉で支えられている思考方法を知ることの重要さが書いてあった。「当たり前」を疑うには外国語習得とか海外生活は手っ取り早く、効果的。 最近私がよく考えるのは「自信の見せ方・出し方」。レベルはどうあれ名実のバランスがとれている状態の自信を持つことは大切だけど、人間だからちょっと大風呂敷広げたり、少し盛ってしまうことはある。その逆も然り。だから謙遜と虚勢は正反対だけど似たものでもある。それでよく日本的な行き過ぎた謙遜と、アメリカ的な実が伴ってない虚勢についてツラツラ考える。まあ元々謙遜するタイプじゃないけど、謙遜しないから日本の社交ルールに違反したりする。かといって自信を表に出せなかったりするので、アメリカやカナダでは「もっと自信持っていいんじゃない?」と言われたりする。