伊勢参り(式年遷宮の年)

にた遠足、その6 今年は癸巳の年。巳年。式年遷宮の年。生まれは三重ですから当然お伊勢さんにお参りしてきました。こういう年は混むので平日の午後遅めを狙って近鉄で。参拝前にまずは伊勢うどん。 まずは外宮から。午後三時ということでパラパラ人はいます。でも至って静か。近鉄の伊勢参拝お得切符(?)を買っておいてもらったので、干支の飾りを引き換えてもらった。狙っていたのは絵皿だったけど、もう在庫なし。世間はよく知ってるね、絵皿のほうが可愛いってことを。 かつて四国の金比羅宮に行ったとき、孝行心から母に辰年のお守りを買い求めました。階段(金比羅宮の階段は1000段ぐらいある)を降り、「実は巳年だったような気がする」とまた階段を登って引き返し、巳年のお守りと替えてもらって家に帰ったら、「辰年だけど…」と言われたのを思い出す。蛇と龍、クネクネと似たもの同士が干支で隣り合っているのは紛らわしい。 外宮を軽く参拝して、お勉強でもしましょうとせんぐう博物館に入館。あまり頭に入ってきません。神々の名前はロシア人やタイ人の名前ぐらいに覚えられません。しょうがないので内宮へバスで向かう。内宮に着いたのは午後5時半。6時には閉まるので、玉砂利を早足で。 奉納されている三重の酒樽の横を通り過ぎる 小学生の頃、明治生まれのおじいちゃんに「伊勢神宮に昔はどうやって行ったか?」と聞いたら、「馬車で行ったことがある」という返事が返ってきて驚いたことがあります。バスとか船という答えを期待していたので。そして「3回経験したけど、もう一回イケルかなぁ」という文脈で20年に一度しかない遷宮という行事について初めて教えてもらいました。 札所にいる人もいつもならてんてこまいでお守りをさばいているのに、ヒマそうでりんごジュースの話をしていました。職場で健康・美容ネタが無難であることは伊勢神宮においても変わらないことに安堵を覚えました。 もうほとんど誰もいない内宮。新しい内宮の建物は白いもので覆われていてほとんど見えないけど、20年前に造られた今の建物は苔むしていてとてもいいかんじ。奥には入れないからこそ、中に何があるのかとても気になる。一度家の神棚の掃除をしたときに、神棚の中にきっと伊勢神宮と同じものが入っているに違いないと思い、開けてみたらからっぽでした。でも遷宮の年の秋には新しい建物にご神体を移動させるのですよ。何を移動させるんでしょうね。 国道23号線は伊勢神宮の内宮が終点。それもそのはず、23号線は伊勢街道だったのですから。 参拝後の夕暮れ。しんと静まり返っていてよかったです。3年前に来た時は架け替えられたばかりの宇治橋でしたが、もうすっかり古くなっていました。それだけ参拝客が多いということですね。 帰りは五十鈴川駅から。缶ジュースを買うのにもたついていたら、電車に乗り遅れた!5分前には駅についていたのにですよ!

福井県へドライブ

指摘を受け「にた遠足」その5。 家族が、福井県に行こうぜ。永平寺だな、東尋坊だな、いや越前ガニだろうが!ということで車でびゅーん。 北陸自動車道に乗る前、四日市の工業地帯を横切る。見慣れた風景なのですが、大人になり、ややガイジン目線で日本を見ている私には、住宅家屋が石油化学プラントに入り混じっていることが驚き。住宅(個人の土地)が先にあったのだろうと思いますが、何十年も経ってもなおここに住んでいるということは、この土地を売るのが難しいからここに住み続けるしかない人もいるのでは…? と察してみたり。 雪の積もった伊吹山、賤ヶ岳などの山々を見ながら、賤ヶ岳で戦ったのは誰と誰だったか、永平寺を開山したのは誰だったかなどの歴史トリビアで家族が盛り上がりつつも、答えがいまひとつ怪しい。正解を叩き出さずに「XXX だったかな?」という疑問文でキャッチボールをすることにより、尽きることのない会話が延々続くという妙技。しかし聞いているのもだんだん面倒になり、「永平寺に行けば誰が開山したか書いてある」と会話に冷や水をかけて終わらせてしまいました。 福井県に入ると「羽二重餅」の看板がやたらと目に付きます。ふわふわ柔らかな羽二重餅には「魔法の白い粉」がかかっていて、食すると洋服に粉が付いたり、食べながら喋ると粉がぷわっと吹き出したりします。お上品に食べるのが困難なおやつです。しかし、今回「けんけら」という黄な粉を固めたおひねりのようなお菓子に出会いました。私好みでおいしゅうございました。 永平寺の門前町に着くや、地元シニアの「駐車場はこちら!」と積極的ながらも嫌味ではない巧みな誘導でお土産屋さんの駐車場に止める。何か買えば駐車代はチャラとなる仕組み。 「ゆく年くる年」の影響で、永平寺はもっと厳かで凛としたイメージがありましたが、観光客が押しかけている昼間はそんなイメージはあまり感じられませんでした。でもサンフランシスコでお茶の稽古をしているお寺も同じ曹洞宗なので、薄いながらもつながりを感じました。 パッチワークと木魚 お参りを済ませ朱印ももらって、「越前ガニ食おうぜ!」と海へ。東尋坊にある店でカニを選んで、お刺身から雑炊まで作ってもらいました。たいへん美味しかったですが、箸休めとして出た昆布の佃煮が実にウマかったと意見が一致。東尋坊は自殺の名所なので、「最後の晩餐ははやりカニなのだろうか」などと思いを馳せる。私ならカニにがっつくファイトがあるなら自殺はしないと思う。そばとかにゅうめんとか軽めに済ませるな。 カニの刺身(透明感のある実) カニの顔(正面) 東尋坊から山手のほうに振り返ると、白い美しい山が!伊吹山を別の角度から見ているのかと思いきや「あれは白山だ」と。以前八ヶ岳に遊びに行ったとき、「八ヶ岳はどこ?」と騒いでいたら「八ヶ岳にいるから見えないのだ」と言われました。美しい山の頂は遠くから愛でるもんですよね。 帰りは土山のサービスエリアで休憩。さすがにこのあたり(滋賀県)だとサービスエリアのおみやげコーナーが京都の和菓子老舗の商品でひしめきあっておりました。それを見て「フン」と思いました。ワールドシリーズの常連チームを快く思わないのと同種の反骨精神の表れですね。

ちい散歩 その4 広島編

ちい散歩 その4 広島編 教授が原爆ドームが見たいというので広島へ。私は被爆者証言の通訳をしたことはありますが、原爆ドームも平和記念公園も行ったことがありません。そういうわけで広島へレッツゴー。 名古屋から出発。新大阪でさくらに乗り換え。さくら初乗車!内装がシニア狙い。車内販売のコーヒーカップの白いラインが新幹線であることに気づく。洒落てるぞ、JR 西日本!ピントが「こけしアネス」にあっていますが。知っていますか?「こけしアネス」を?私の大好物、日本に帰ったらハズせないアイテムの一つです。でも今回何か味が落ちたような気がしました。変なネーミングよね。「こけし」はわかる。こけしの形だもん。「アネス」って何? 到着は既に夕方近く。まずは広島焼。我々のような観光客のためにあるのではないかと思われる「お好み村」へ。雑居ビルの中にお好み焼き屋がぎっしり。広島カキ入でおいしゅうございました。「広島では屋台が禁止になったので、屋台のお好み焼き屋がああいう雑居ビルにまとめられることになった」と後で立ち寄ったバーのおじさんに教えてもらいました。 この近くに流川町という歓楽街があり、風俗がどのような状態なのかを社会見学。かつては若いお兄さんたちが執拗な呼び込みをしていたと記憶していますが(いつの話でしょう)、そのような人たちは見当たらず、ブースがあちこちにあり「情報無料案内所」などという看板があちこちに… そして、遊び方により価格設定が異なることが「System」と呼ばれ、あちこちにその看板が見られました。英語圏に暮らす私たちには「システムってなんのこと?」と興味そそられる風俗和製英語です。そして、驚くなかれ、アラフォーかアラサーかを選べる店の看板を発見。アラフォーのほうには「人生経験豊富。仕事に疲れたアナタを癒します。」というような熟女の魅力をアピールする口上が!歓楽街にはこう「ナケナシの想像力の爆発」ともいえるコピーが氾濫しているので、看板を見て歩くのが楽しみです。しかし、これは熟女の幻影を謳ったコピーです。現実の熟女はアナタを「でぐのぼう」扱いするのが一般的ですから。「アラフォー」のほうの看板のモデルは「あるある!」な髪型とファッションで現実主義を貫いていました。 さて翌日。爆心地から30m 離れたラーメン屋で昼ごはん。爆心地の記念碑を見て、原爆ドーム、そして平和記念公園。有名なサダコ像を見て、資料館へ。教授は投下された原子爆弾のモデルに強く興味を示して、時間をとって見学。やっぱり理系ですね。 私は広島がなぜ原爆投下の標的となったのかを説明する歴史、つまり第二次世界大戦に至るまでの広島の歴史を説明するパネルをしげしげ。現代日本人が忘れがちな日本近代史。説明は簡単ながらも配慮、熟慮、遠慮が感じられ、結果、中立的になっています。たった50円の入場料で日本近代史をサラっと復習できます。そういえば、西日本と東日本を関ヶ原あたりで分けたがる理由をまたひとつ発見。資料館に「鈴鹿山系を境に全国を東西に二分し、第一総軍の司令部は東京に、第二総軍の司令部は広島におかれた」とありました。 厳島神社に行くつもりなのに資料館に3時間も長居したので、2つのユネスコ世界遺産を行き来する遊覧船を利用。とても便利です。知ってました?原爆ドームの世界遺産登録にはアメリカと中国が猛反対したって。ま、当たり前ですが。というわけで「負の遺産」から「正の遺産」へ移動。 既に午後4時半で、宮島には人影も少なく… 鹿も人疲れしている模様。潮が満ち始めて鳥居は水の中。私はこの状態の鳥居のほうが好きです。瀬戸内の夕暮れも美しく、神社の朱も鮮やかに雅やかなのですが、人が少ないのでそら恐ろしくなってきました。 フェリーに乗る前に「もみじまんじゅう」をバラで買い食い。老舗のお菓子から出るゴミの量は多いね。一気に3個も食べてしまったせいもありますが。3個も食っておきながらナンですが、そんなに好きではありません。

ワイドビュー南紀で紀伊勝浦へ

ちい散歩(?)その3。 JR レールパスをフル活用ということで、津駅から「ワイドビュー南紀」に乗って終点紀伊勝浦へ。一日4往復のみの運行なので、それを組み合わせての日帰りは強硬スケジュール。片道約2時間45分。勝浦での滞在時間は約40分。一体何しに行ったの?と人に言われましたが、車窓の景色を楽しむことが目的。 ワイドビュー南紀は非電化の紀勢線を走ります。だから?なに?ですが、まあ利用客が少なすぎて電化できない田舎を走る、ということで、ひいては田舎の景色が楽しめるということですね。期待にもれず、景色は美しかったです。折角ですから、この旅の様子は三重弁でご紹介しましょう。 津駅から多気駅までは三重県民にとっては普通の風景やけど、多気からは徐々に山深くなり、畑も田んぼも「真剣に農業を営んどるかんじ」で、里の景色もオツ。国道42号線と平行している箇所も多くて、「おきん茶屋」の看板が見えたときは「おきん茶屋やん!」と驚いたわ。 三瀬谷駅のあたりともなると、渓谷があらわれて、「ちょっとぉ、ここすごいやん!」とカメラを構えたくなるもの。あれは宮川かな?ようわからんけど。 列車は停車しやんけど滝原駅を通過。ということは滝原宮が近いということやな。道理で山々が霊験あらたかなかんじやわ。 大内山の駅も通過。大内山牛乳入れたカフェオーレ飲みたいわぁ… と独り言。この辺は本当に山深くて、トンネルをいくつもくぐり抜けるんやけど、この列車が本当に海に向かっているか心配になるぐらいに、山また山、なんさ。ノルウェーのフロム鉄道もよかったけど、これもいいもんやわ。 山も見飽きた頃に紀伊長島駅に到着。うわー!港やん!海やん!造船所とかあるし!いい天気やん!紀伊長島ってマンボウの町やったな。マンボウ食べるんやに。あんま好きっちゃうけど、見た目が。頭だけが泳いどるみたいな魚やん。漁港ってかんじやなー。ここらへんはまだリアス式海岸で、海が見えたと思ったら、山、海、山、海、の連続。 そしてついに尾鷲!港が大きいな。尾鷲の後は、地味やけど綺麗な海岸浴場が見える。新鹿の海岸とかすっごいきれい!子供の頃遊びに来たことがあるわー。台風の直後で海は大荒れやったけど、強行突破で泳いだら、波が高過ぎて水着が脱げそうやったなぁ。でも泳ぎ続けとったら、ビニール袋に入った財布がプカプカ海に浮いとって、それの中にナント5千円!私たち子供は「交番さがそ!」ってゆったのに、お母さんが「こんなとこに交番はないから、アイスクリーム買って食べましょ」って。「そんなことしてエエんや!」とあの時初めて思ったわ。… 色々と思い出したけど、新鹿は本当にきれい。尾鷲以南の海岸の景色は、中上健次の小説に描かれとるし、中上ファンにはたまらんかもな。「岬」は私も読んだわ。 鬼ヶ城からは海岸線がガラっと変わって、スーっとまっすぐな七里が浜が新宮まで続いとる。この辺の海は熊野灘。灘ってなに?湾よりも陸の湾曲がなだらかだから「ナダ」? このあたりのサンマってすごくおいしいんやに。サンマを丸干ししているところが見えたり、みかんの木々の間を単線の線路が続く! 三重県南部と和歌山はサンマもいいけど、みかんも種類豊富。七里が浜には流木がゴロゴロ。砂浜じゃなくて砂利浜。丸い石がごろごろした浜。昔、明治生まれのこのあたりで生まれたおばあさんから「子供の頃、碁石の原石を拾うとお金がもらえた」って聞いたことがある。今そんな石が転がっているのかどうかは知らんけど、那智黒石ってゆって、碁石とか硯に加工されるんさ。それにしてもいいお天気!同じ三重県でもさすがにこの辺は暖かい! やがて三重と和歌山の県境となる新宮川を渡る。三重の最南端の町が紀宝町。川を越えると和歌山県新宮市。そして新宮駅からは、JR 東海が JR 西日本になります。乗務員総入れ替え。新宮駅からは熊野本宮などに行くバスが出とるよ。このあたりは名古屋からも大阪からも遠いから、秘境も秘境。古代から秘境。紀伊半島は面白いね。新宮で降りてしまおうかな、という気持ちを抑えて、終点まで行くぞ! 新宮から紀伊勝浦まではほんの10分。新宮に向かう列車「くろしお」とどっかの駅で行き違う。くろしおもエエな!でもあれは大阪から乗らなくっちゃね。次回のお楽しみやわ。やっと勝浦到着。さーて40分しかありません。津駅に引き返すための列車に乗らなあかんし。とりあえず、勝浦の港へ走っていって、写真をパチリ。 まぐろの漁港なん!?でも私はマグロよりサンマ派ですよ。サンマが欲しい!でも帰路で食べる「めはり鮨」と、おみかん買わなくちゃ!ややっ!おみかんの種類が多過ぎて迷うー!!めはり鮨っていうのは、高菜みたいなお漬物にした大きな葉っぱでおにぎりをぐるんと巻いたもの。鮨っていうけどスシ飯じゃない。これがとってもおいしい。お昼ごはんに最適。「すいませーん!22分発の電車に間に合うように作ってくださーい!」って失礼なことゆーてしもたわ。 自販機でお茶買って、食べ物は全部揃った。帰りも景色を楽しもう!と意気込んでいたのに、ガタゴト揺れが心地よくて起きたら松阪でした。

阿漕駅周辺をちい散歩

ちい散歩その2。 川喜多半泥子の作品が多く展示されている石水博物館のタダ券をもらい、阿漕の駅から徒歩で。無人の駅を出たとたん、どっちに行けばよいのかわからず、人がまばらすぎて道を尋ねることもできず、営業しているのか外からはわかりにくい喫茶店のヨボヨボのお爺さんに道を尋ねると「あっちのほうや。池のどんづまりを左に行け。」…と。 「どんづまり」の意味がわからず、聞き返す勇気もなかったので、「あっち」というアバウトな方向指示に従いましたが、「直線で行けばあっち」ということなので、それなりの努力と想像力を必要とする散歩でした。でも到着。方向感覚だけは優れているのです。 平日だったので誰もおらず、好きなように展示物を眺めていました。長谷山の広永陶苑に行ったこともあるし、半泥子の生き方も憧れるところがあるけど、本人が作ったものよりは、彼と交流があった人たちからの贈り物のほうが私は好きでした(ま、そっちのがプロだからね)。 この池の「どんづまり」というのは...?? 池の手前という意味だったようです。 また歩いて阿漕駅に戻りましたが、名所案内が恐ろしい。 阿漕塚とは阿漕浦にあるのでしょうか?「あこぎな」の語源になった浜のことです。 この JR 阿漕駅のレトロぶりに嬉々として写真をパチパチ撮影。無人駅なのですが、隣の津駅から遠隔で案内放送が入り、「只今津駅を列車が発車いたしました」という実況中継ぶりです。 シンプルな直線美 余談ですが私は鉄女じゃありません。

寺家と白子でちい散歩

日本に一ヶ月も里帰りしていたので実家付近で「ちい散歩」してみました。遠方からわざわざ訪ねるほどのものはないけど、伊勢街道沿いなのでそれなりにスポットはある。 まずは子安観音へと足を運んだのですが、観音寺よりもスゴイもの発見!(あくまでも「ちい散歩」的発見) この周辺は車が入れないような狭い路地が迷路のようになっています。散歩というより、人の家の裏側を歩いている感じなので、怪しまれるのではと思うほど狭い。そんな中、西方寺というフツウの町のお寺を見つけ、入る。 人の手をかたどった、一見不気味な碑を発見。 碑の裏手に回ると、島村俊廣という囲碁棋士の天元戦優勝を記念したものだという記述が。 この方は寺家出身のようです。ウィキペディアにもページがあるけど、有名な囲碁棋士だったのですね。よーく見ると、気持ち悪い!と騒いだ「手」というのは、碁石を碁盤にパチリとさすときのポーズで、石が一個指に挟まれている。碑の周囲も碁石が敷き詰められている。なかなかの発見でごじゃりました。 一応、子安観音の報告もしておきますと、751年開山の古いお寺です。白衣を纏った観音様が鼓に乗って海から現れたのでその観音が祭られています。だから、このあたりの浜は「鼓ヶ浦」というのね。ふむふむ。 日本帰国直前に水上勉の「櫻守」を読んだ影響でここを訪ねたのですが、「不断桜」という有名な古木がこの本に出てきます。一年中花をつけているからこの名前が付けられているのですが、ちらほらとしか咲かないようです。 「子安(こやす)」観音なので安産祈願に来る人が多く、この日にも何組かの夫婦を見かけました。この櫻の葉っぱの裏表で赤ん坊の性別を占い、祈祷済み腹巻がもらえるみたいです。そして、前にも書きましたが、この不断桜の櫻の葉の虫食いの様子が美しかったので、伊勢型紙が生まれたとか。そんなわけで隣接の幼稚園の名前も「さくら幼稚園」。なーんだそういうことだったのか。 詳しくはこちらを。 ついでに伝統工芸会館でも行って、伊勢型紙と鈴鹿墨でも見てきましょう、と歩いていきました。書道を習っている妹のために墨を買おうとしたら、「ひらがな用ですか?漢字用ですか?」と聞かれよくわからず断念。どうも濃さが違うようです。子供の頃、近所に型紙の彫師や墨の色入れをしている人たちがたくさんいたなー。勝手にそういう家にお邪魔して作業しているところを見ていたな… などと感傷に浸ってみたり… 帰りは鈴鹿茶房でふわふわオムライス。満足な一日でした。