インスタカートの盲点を見つけてしまった。 今回、1リットルサイズのペリエを4本、配達してもらおうと思ったのだが、それだけを頼むのもなんだな、と思って、キノコとか豆腐とか軽いものもいろいろ頼んだのであった。 そしたら、ペリエが店頭になかったらしく(実に疑わしい)、それ以外のものが配達された。しかも、私の家までではなく、コンセルジュのところまでしか配達してくれなかった。いつもは、コンセルジュは食料品は預かってくれないのに。 一番欲しかったものがない!と最初はキィー!と怒っていたが、ちょっと学習した。 1)重たいもので、絶対に欲しいものはそれだけを頼み、代替品を必ず選ぶ。 2)絶対にここまで持ってきてほしい、という場所をアカウントの配達指定に書いておく。 3)ショッパーとの連絡方法は、テキストメッセージじゃなく、「電話」に指定しておく。テキストだと「配達しといたからね」という事後報告が来る。 プンスカしながら、コンシェルジュや同じ集合住宅の住民に事情を話し、「あなただったら、チップと評価をどうする?」と相談した(私は低評価する気満々だったのだ)。そしたら、他の人達に「そういうのはコミュニケーション不足だから、チップを若干少なめにするぐらいで、罰を与えるようなことはしない」と言ってくれた。落ち着いて考えれば、ショッパーはやるべきことをやっている。だから払うべきものは払った。 結局私は、届けられた食料品を大きなカバンに詰め替えて、それをたすき掛けにし、「ペリエが4本届けられなくてよかった」と思いながら、松葉杖をついて自分のところまで運んだのだった。 ちなみに、コンシェルジュのおじさんが気を利かして家まで運んでくれることもあるが、このときおじさんは大量のアマゾンの箱に囲まれていて、忙しそうだった。
Author: Kyoko Nitta
On Chesil Beach
やっと見た! 新婚初夜の壮大なお話。邦題は『追想』。 原作だともうちょっと深刻に書かれているんだと思うけど(まだ読んでない)、映画では、闇の部分は匂わせる程度になっている。主役の女の子をシアーシャ・ローナンが演じてるから軽妙に思えるせいもあるかも。割と最後まで、「ええっ? それってもしかして?」「まさか、そういうこと?」と匂わせるだけ。わからない人には、わからないかもしれない。 イアン・マキューアンの小説の世界(人生のとんでもないすれ違い)が好きじゃないと、面白くないかもしれない。私は大好きだけど。
Extremely Wicked, Shockingly Evil and Vile
『ハイスクール・ミュージカル』を頻繁に見ているからなのか、ザック・エフロンがらみでネットフリックスに『Extremely Wicked, Shockingly Evil and Vile』を勧められ、見てしまった。この映画では、ザック・エフロンは踊っても歌ってもいないけど、連続殺人犯(サイコパス)、テッド・バンティを演じてる。なんかすごいはまり役で、怖かった! そしてテッド・バンティについての長い長いウィキペディアページ(英語)も読んでしまった。もう絶対、森の中にハイキングになんか行かない! こそっと面白かったのが、検事役でジム・パーソンズが出てきて、もうシェルドンにしか見えなかったことと、『シックス・センス』のハーレイ・ジョエル・オスメントが出てきたことかな。
Sunset Boulevard
まだまだ外出となると不安が募り、考えただけでもめまいがしそう。でも不自由で外出しづらいなどと、いつまでも言っていられない。足が不自由な白黒映画の仲間と、「一緒に映画を見に行こう!」と話がまとまり、『Sunset Boulevard(サンセット大通り)』を見に行った。 ウーバーに乗らなければ行けないので、かなりお高い映画鑑賞だが、家にずっといるのも気が滅入る...... てなわけでGO! お互い足が心配なので上映時間の1時間前に落ち会う約束をした。案の定、友達はぎりぎりだった。彼女は杖仲間でも、松葉杖ではないのでポップコーン片手にやってきた。「食べる?」と勧められ、手を伸ばしたら、私の松葉杖がポップコーンの袋をなぎ倒してしまった...... で、映画の話。 昔々、まだ自分の若さがしたたり落ちるほど溢れているときにこの映画を見たことがある。でも当時は、このストーリーの中の大女優の心境を深く理解していなかった。女優は50代(たぶん50代前半)。過去の栄光に、時代にそぐわなくなった才能に、衰えた美貌にしがみつき、若い頃の自分にがんじがらめになっている彼女の気持ちが、今はよくわかる!! なんだろうな、潮目を見極めて、時流に乗るって一種の器用さが求められるけど、「器用に生きる」って小賢しい感じがする。人生に美学をもっている人なら、器用になろうとは思わないかも。 と杖をつきながら2人で語り合った。 白黒映画の仲間は杖仲間。「こんな偶然ってないよね。記念にセルフィー撮ろう!」ということになった。すると、映画館の人が「レッドカーペットが敷いてあるから、そこで撮ってあげようか?」と写真を撮ってくれた。ふたりとも大爆笑で幸せな一枚(ここでは顔出しできないが)。 その後、すぐ近くのレストランに行き、ごはんを一緒に食べた。ヒマそうなレストランってありがたい。ふたりで世の中の「障害者用ボタン」の位置とか、エレベーターの場所などの話題で盛り上がった。彼女のほうが障害歴が長いので、教わることが多かった。 問題は帰り。雰囲気的に、公共交通機関(TTC)を使って、途中まで一緒に帰る、という話になってしまった。さすがに私にはハードルが高いのだが、日曜日だったので、そんなに混雑していないし、杖仲間がいるし、いつかは意を決してやらなければならないことだし......と、TTCに挑戦してしまった。いやもう、恐ろしかった。路面電車が一番こわかった。あと、エスカレーター! あれは恐ろしい! 乗らなかったけど、乗れるのかな?と思って乗り口のそばにいたら、周辺の人たちに「それは君には無理だよ!」と止められた。 概ね、トロント市内の人たちは親切にしてくれるし、手伝いましょうか、と言ってくれる人も多いし、「大丈夫」と言えば放っておいてくれるので、よかった。 結果的に無事家に戻ってきたけど、緊張しきったせいか、その日から2日間寝込んでしまった。
instacart その2
歩行が困難なので、食料品の買い物ができない。ショッピングカートを押すのも、買い物をかごを持つのもできない。カナダだと、店内にいる間は自分のバッグに物を入れてショッピングし、最後に支払えば万引きにならないが。あと、大型店舗だと店内で歩き回らねばならず、小型店舗だと、歩くスペースが狭すぎ。何より、水が床にこぼれてる可能性がある食料品店を松葉杖で歩くのが怖い。 普段は家人・友人にお世話になっているが、やっぱりインスタカート。「世話になって申し訳ない」と思わなくて済むし、欲しいものをネットでポチれるので誤解がない。まあ、友達に頼んで買い物してもらえば、後でおしゃべりが楽しめるけどね。 久々にログインしたら、店が増えてる。プサテリが入ってた。高級グロッサリーで店舗が少ないとこが参入するのはわかる気がするな。自分で買い物したくないお金持ち、昔なら、御用聞きにすべてお任せしていたようなお宅が今はインスタカート(と、勝手に解釈)。 「本当はこっちほしいけど、もしなかったら、あっちでもいい」という機能も前回にはなかった(と思う)。 子どもの頃、親が買い忘れたものなどを買いに行かされていたが、店に行ってみるとそのブツがなく困り果てるということがあった。買いに行く途中に違うことを思いついて、親に頼まれたものではなく自分がほしいものを買ってきてしまうこともあった。最近は子どもにお使いに行かせるようなことはほとんどないだろうけど。 実は私は買い物に行って、レジの人と世間話をするのも好きだったりする。店によっては、何かの事情(何かの依存症とか)で自立できなくなってしまった人の社会復帰を支援しているところがあって、そういう店では健常な人ならわけなくデキてしまうことが出来ない人たちが働いている。 以前、とあるスーパーの中にあるジェラートの店で、ジェラートを買おうと思い、洗い物をしているお姉さんに「エクスキューズ・ミー!」と声をかけた。お姉さんは、蛇口の水を止めず、泡でブクブクのゴム手袋を外すことなく、いきなりそのアワアワの手にアイスクリームをスクープするやつを持ち、私のジェラートをすくい始めた。 「あっ!」 と思ってお姉さんの顔を見たら、ここ以外ではちょっと雇ってもらえなさそうなオーラが十分に出ていたので何も言えなかった。幸い、泡はジェラートにつかなかったけど。インスタカートでは味わえないスリルだ。
無限の網
芸術家として揺るぎない地位を築いてから書いたものだからなのか、それとも草間彌生はいつもこういう突き抜けた自信を持って執筆するのか、よくわからない。ずっと前に読んだ『水玉の履歴書』より尖っていて面白かった。 比べるのはおこがましいけど、何となく私にはわかる気がする。翻訳を仕事にしようと思ったとき、英語と日本語の出版物を沢山読む、文章を毎日書くなど、自分に課したことがいくつかあった。でも、まだ結果が出ていない状態でそういう努力をしていると、「翻訳なんて、他人の書いたものを違う言語に置き換えるだけで、自分の考えを執筆するわけじゃないから執筆業として劣っている」とか「無理して英語の本を読んでいるに違いない」とか「毎日ブログ書いて暇を持て余しているに違い」「ただのブログなのに読者を意識して書いている」などなど遠慮なく批判されてしまう。反論させてもらうが、そもそも、一般の人が1時間ぐらいかけてやることを5分ぐらいでやれるから、職業として成り立つわけなので、読む・理解する・書くのスピードをあげて磨くのは、野球選手のバッティングやキャッチボールと同じなのだ。 で、やっと結果が出始めて、人に「翻訳やりたいけど、どうすればいい?」と訊かれれば、やっぱり自分がやってきたことと同じことを習慣づけるのが一番、と自信をもって言える。この間、エージェントに「仕上がってくる翻訳文って、訳者によって全然違いますか?」と訊いてみたら、「全然違う」と言っていた。「誤訳」というアウトはあっても、それ以外は「個性」らしい。その「個性」を出版社に気に入ってもらえるかどうかという難関がさらに待ち受けているのだが。 話は変わるけど、数年前、東京でアートの展示会に行き、草間彌生の画商をちらっと見かけたが、すごくお金持ちそうだった。まあ、貧乏な画商というのはいないのかもしれないけど。 全然関係ないけど、私も水玉が好きで、昔、某SNSで「毎月第一火曜日は水玉の日にし、水玉模様のものを見につける」みたいなことをやっていた。ある日、グループの人に「主催者のくせに水玉デーに水玉を身に着けていない!」と告発されてしまったが......
ウーバーのセクハラ気味のおっさん
その後、怪我の経過はまあまあで、痛めた筋肉はだいぶ回復していると思う。 カナダでは確定申告のシーズンなため、松葉杖をついてウーバーに乗り、税理士のところへ行った。ところが運転手が「ぼくはねぇ、本職があるけど運転が好きだから空いた時間にウーバーやってるんだよ。それに、こういうのをやっていると人との出会いがあるしね。まだ独身だからいつかいい出会いがあるかもしれないしね」と言い、ニマっと笑った。 松葉杖がつっかえるので助手席に座っていた私は、このおじさんの言動に身震いした。それまでの第一印象は悪くはない。乗車するときも、松葉杖だからとちゃんとドアを開けてくれたのだ。でも、ライドシェアに運転手として参加できそうな年齢の上限に近いので(アプリを駆使しながら運転しなければならないから)、ライドシェアの文化がわかっていない! 内心、「このおじさんには星5つはあげられないな」と思いつつ、「あっそ」と言って知らんぷりをした。 そもそも、私は歩行困難で、女性(中年だけど)で、車という密室空間にいて、車の操縦権を握っていない。そういう状況でこういう発言をされると、不愉快以外のなにものでもない。「セクハラ」というものを認識していない世のおじさんたちが、一番間違いを犯しそうな状況である。これがもし、市街に向かっているのでなくて、郊外に向かっていようものなら、そしてこれが夜なら、私は途中下車をしたと思う。私の武器は松葉杖とアプリでおっさんに低評価を与える権限しかない! かといって、突然おっさんに向かって「変なこと言わないで!」と怒るのも失礼だろうし、まずいと思って、とりあえず、「あっそ」と返事し、「その話はしたくありません」のオーラを全開にした。その後は特に何事もなく、おっさんもそれ以上、あんまり何も言わず、時折「道が混んでるね」「あの車、ウィンカーちゃんと出せばいいのにね」と眼の前の交通状況を話し合いつつ、目的地に着いた。 降りるときもおっさんはちゃんと私が降りやすいように段差がないところに止めてくれたし、ドアも開けてくれた。結局は親切な人だったのだ。空気が読めていないだけで。運転手としてのおっさんは悪くはなかったので、どうしたものかと悩んだ挙句「無評価」にしてある。 昔、人(日本人)と5段階評価について話したとき、その人は「なすべきことをやってもらえたら3」だと言っていた。私は「なすべきことをやってもらえたら5」の考えなので、ちょっと驚いた。じゃあ、どういうときに5をあげるの?と聞いてみたら、その人は相当な無償サービスを与えてくれたら(感じがいいとか、そういうこと)「5」だと言っていた。まあ、レストランなんかの評価なら、その考えもわからなくもないが。 私はレストランをわざわざ評価したりしないけど、ライドシェアは身の危険と直結するので、必ず運転手を(星で)評価してる。どうしよう。
芥川賞2作
これも入院中に友達が持ってきてくれた。今年の芥川賞2作が載ってるので読んでみた。 なんか2つともどこかが似ている。「私小説」よりももっと「私」のことばっかり。主人公ではない人たちも自分のことしか考えてない。私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私...... 「私」が分身術で増殖しちゃっているか、鏡の部屋に住んでいるか。ま、それが現代なのかもしれないが。周囲の描写もサーバールームだったり、ジムだったり、ホテルだったり、安アパートだったり、結構無機質なんだな。 あなたの人生にはあなたしかいない...? ひょっとして情緒が育たずに大人になっちゃった?(と登場人物に言ってしまいそう)。面白くなかったわけではないんだけど、閉塞感をみっちり味わった感じに近いかも。
タイワニーズ
入院中に友達が持ってきてくれた。ちょうどいい具合に、転倒した日に日中関係の書籍の翻訳を終えたばかりで、中国、台湾、韓国の近代史について予備知識がまだ頭の中に残っていた。同時進行で読んでいた『大地の子』で、ちょっとよくわからないと思っていたところも、「なるほど!」と謎が解けた。 蓮舫、リチャード・クー、東山彰良、温又柔、ジュディ・オング、余貴美子、安藤百福、羅邦強(551の豚まんの創業者)、陳舜臣、邱永漢と、台湾人(またはかつて台湾人だった人)たちのルーツが、これでもかというくらいに細かく書かれている。私など、英語の勉強をしているせいで、普段読むものは英語圏の出版物が多く、台湾の歴史をじっくり読むことなどほとんどなかった。だから、この本はとっても面白かった。 陳舜臣は私にとって昔の人だったので「日本語で作家として活動していること」について疑問を抱いたことすらなく、バカな私は中国のことをいっぱい書いているから「陳舜臣」というペンネームを持った日本人が書いているのかな、とすら思っていた時期もあった。さすがに、東山彰良ぐらい「今」の人になると、どうして日本語で執筆活動してるのか気になる。自分の作品をより多くの人に読んでもらいたいのなら、中国語で書いたほうがいいに決まっているのに、敢えてそうしていないわけだから。 実は、なんとなく気持ちがわからなくもない。私も英語で文章を書くことがあるけど、「自分語り」をするにしても、そりゃーもー、精神面からして違うから(簡単に言うと、自分と距離が置ける)。 内容はとても面白かったんだけど、この著者はちょっとロマンチスト気味? 時々「XXさんのこの言葉に感銘を受けた」と書いてあるところで、なんか陳腐な感じがした。私が冷めすぎ?
転倒事件その5
かっこいいと思った救急隊のウィリアム王子は、友達に言わせると「救急車マジック」や「鎮痛剤マジック」のせいで、かっこよく見えただけらしい。 最終的に私が入院することになったリハビリ病院では、1室2ベッドという病室だったので、お隣さんがいた。骨折などで長期リハビリが必要な人と言えば高齢者。若者も入院するけど、治癒力が高いのですぐに退院するらしく、私のいたフロアの平均年齢は65歳ぐらいらしい。 私のお隣も高齢の女性で、東欧系の人で英語がほぼできない。クロアチア語を話していたので、コソボ紛争あたりでカナダに移民してきたのかも。週末には娘と息子が見舞いに来て、クロアチア語で話をしていた。娘は近くの病院にお勤めしているので、英語が話せない母親に代わって、看護師にお母さんの要望を伝えていた。 一応お隣さんなので、挨拶ぐらいは身振り手振りで交わしていた。私のほうは入院したてというのもあって、見舞客が毎日来てくれて、おしゃべりの時間もとても長かったし、パートナーは毎日顔を出してくれたし、ユーチューブ見たり、音楽も聴けた。一方、お隣さんはスマホもコンピューターもないので本しか娯楽がない。連休だったので家族が時々来ていたけど、お見舞いの時間はとても短かった。多分、ほかの高齢の患者さんたちも同じような感じなのかもしれない。 私が一番堪えたのは病院食。とてもまずい。特に夕食がひどい。朝食と昼食は軽食なので、口をつけられないほどまずいものはあまり出てこない。入院時に食事の好みに答える用紙に記入したけど、ものすごく細かい。多種多様な人が入院するので、食事も同じものを一様に配膳できず、病院側は大変なのだそうだ。 私は友達やパートナーに外から食事を持ち込んできてもらったので、ラッキーだったけど、それでも病院食が体に合わず、いつも気分が悪かった。薬を服用するのに少し食べたほうがいいと思って、ほんの少し口をつけていただけなのに。食事面を考えただけでも、長期入院している患者さんが本当に気の毒だった。でも、長期だと家族や友人も頻繁には食事を運べない… どこの病室の人かわからないけど、毎日一日中、苦しそうに咳き込んでいる人がいた。その人も骨折しているはずだから、咳は骨に響くので本当につらい。看護師に「あれは何?」と訊くと、「喫煙者だったからああいう咳が出る」と教えてくれた。英語で smoker's cough という。 私は怪我の原因がそもそも笑えるので、看護師たちともその話で盛り上がり、親しくなれた。親しくなると、やっぱり超多忙な看護師相手でもコミュニケーションが図りやすくなる。だから、「もうこれ以上は病院にいたくない」と嘆願したときも、あの手この手で交渉して帰してもらえた。「交渉」といっても、「私はこういう動きはできるし、こういう作業は自分でできるし、必要なものはネットで買うし、助けてくれる人も周囲にいる」などと、いかに自分には入院の必要がないかを主張するだけなのだが。病院側にはいろんな立場の人がいる。医者、看護師、理学療法士、作業療法士、薬剤師と、同じことを何人もの人に繰り返し言わなければならない。「わがままかもしれないが、これが私の意志なのだ!」みたいな開き直りは必要。 でも、お隣さんのように英語が話せないと、自分の病状や痛みを伝えたり、お願いごとをしたりできない。カナダの病院だから、英語、フランス語、スペイン語、中国語ぐらいは誰か話せる人がいると思うけど、少数言語になると難しい。やっぱり、海外に長く住むのであれば、その国の公用語か主要言語はある程度話せるように努力すべきだな、と思った。「そんなこといったって...」と反論する人もいると思うけど、そこは踏ん張らなければならないところだと思う。家族に全面的に頼ると、家族関係にひびも入ると思うし。 私はただの骨折だったので、医者と話をする機会はほとんどなかったけれど、看護師にはどこの病院でも本当にお世話になった。まったく動けないので、何をするにも看護師に動いてもらわなければならなかった。救急病院の看護師たちは殺気立つほど忙しそうだったけど、リハビリ病院の看護師たちも、特に朝から昼すぎまでは、広いフロアを走り回るぐらいのスピードで患者を診て回っていた。そんな中でも、面白い話をしてくれたり、ちょっとした無駄話を交わして気持ちを和らげてくれる看護師さんは本当にすごいなと思った。 まだ請求書が届いてないけど、多分、松葉杖と薬以外はタダなのだと思う。これだって後で申請すれば保険である程度はカバーされる。一人でシャワーを浴びられないので(バスタブをまたげない)、補助ベンチを買ったけど、これも保険がある程度適用される(医者が必要だと一筆書いてくれたので)。カナダはやっぱりその点がありがたい。 ちなみに私が買ったシャワーベンチはこれ。http://www.myaquasense.com/products/bathtub-transfer-bench/ アマゾンで買って翌日ぐらいに配達してもらった。 カナダでも、病院の経営統合やコスト削減のニュースはよく聞く。カナダも高齢化が進んでいるのに、最小限の人材やコストで、長期入院者(高齢者)を支えようとしているようにしか思えない。私が1件目の救急病院で帰されそうになったのも、そういうことのしわ寄せじゃないかと思ってしまった。 無駄をそいで、雇用を創生するのも大事だと思う。病院経営にもそういう部分はあるのかもしれないけど、医療はもう少し手厚くしてほしい。どうしても何かをそぎ落とさなければならいのなら、郵便局を民営化して、医療を充実させてほしいかも。 以上、転倒事故の報告でした。
