昨日はカナダはリメンバランス・デー、アメリカはヴェテラン・デーと、国に奉仕し亡くなった軍人たちの慰霊式典があちことで行われていた。トロント市内も、赤いポピーのバッジを胸にあしらった人でいっぱい。 老若男女問わず、赤いポピーをつけて、むしろ楽しそうに追悼の意を表している姿は、羨ましくもあるけど、第一次世界大戦以来、綿々と世界各地の紛争に軍隊を派遣し、リアルに今も兵士が亡くなっていることの証でもある。こういう日をきちんと設けて、追悼しないと、(政府は)国民全体に示しがつかない、ということだよな。 日本の場合は終戦記念日があるし、全国津々浦々にある護国神社にお参りに行ったりする人はいると思うけど、第二次世界大戦に遡っての追悼だから「今」の話じゃないよね。そのうち「今」の話になっていくのかもしれないけど。 我が家の場合、祖父は戦争に行かなかったので戦場体験を直接聞くことはなかったけど、戦後の様々な改革で煮え湯を飲まされた体験があり、終戦記念日あたりになると、それをちょっとだけ語って、喉をつまらせて泣いた。「あの話」をするとおじいちゃんは泣く、という認識が今も残っているので、たぶん子供心に強烈な印象があったのかも。 リメンバランス・デーの前に、友達と話をしていて、世界でいちばん安全そうな場所(戦争が起きなさそう、という意味で)は「ニュージーランドかカナダ」という結論に至った。友達は「ニュージーランド」一押しで、私は「カナダ」。
Author: Kyoko Nitta
Kevin Spacey
ハーヴィー・ワインスタインのセクハラ事件の後、次々に過去のセクハラ被害を告発する人が後を絶たないし、魔女狩りっぽい報道がされるので面倒くさくなってきた。 ケビン・スペイシーに至っては、好きな俳優の中の一人なので、イライラ度が最高潮に達している。ネットフリックスが彼との契約を切ることを発表してからは複雑だ。でも『ハウス・オブ・カード』に関して言わせてもらうと、ドロドロしすぎてシーズン5でお腹いっぱいになったので、これを機会に終わればいいのにとは思う。告発者は14歳のときに被害にあったと言っている。30年とか40年も前の話、どうやって調査すんのさ。というか、告発した人は告発したことで満足して終わっている感じだけど。 14歳といえば、昭和の歌謡曲で「ざんげの値打ちもない」って曲がある… 映画「タクシードライバー」も... 14歳は法律上は未成年でも、お年頃。 ハリウッドのセクハラについては、モーリー・リングウォルドがニューヨーカーに寄稿した記事がいちばん共感できた。さすがだ! 要は、彼女には、しっかりとした両親がついていてくれて、ハラスメントが起きやすい業界にいる自覚もあったけれど、セクハラは避けられずに彼女の身にも降り掛かった。ところがハーヴィー・ワインスタインに関しては、彼が成功して権力を握る前に、彼女のほうが先に活躍していたから、力関係では彼女が上で、彼からのハラスメントは免れた、という内容。私が納得したのは、彼女が「ハリウッドを離れる選択もある」ことをちゃんと認めていること。 有名人への社会的制裁ってのは当然大きくなるとは思うけど、ハーヴィー・ワインスタインのように被害者の数も半端ないケースもあると思うけど、じゃあ、どれぐらい罪を償って代償を払えば、社会復帰できるの? 有名人相手なら、30年前や40年前のことでも告発すればメディアは反応するけど、普通のそこらへんのおっさんの場合はそうはいかない。 最近、セクハラではないけど、恋愛関係にあったゲイの一般人恋人に個人的な秘密を暴露されてBPのCEOを退いたイギリス人のおじさんの本を読んだ。というか、昔の恋人に恐喝まがいのことをされたわけ。セクハラする人を擁護するわけではないんだけど、一生かけて築いてきたものをこんなふうに壊されていいもんだろうか。ハーヴィー・ワインスタインはさておき、ケビン・スペイシーについては同情してしまう。「ベイビー・ドライバー」をこの事件が起きる前に見ておいて、本当によかった。
クリエイティブ・ライティング、その2も終わった
またまたクリエイティブ・ライティングのコースが終わってしまった。今回は8人だったのでもっとお互いの書いていることをよく知ることができたし、いろんなことが話せてよかった。 フィードバックをするときに、授業の中で話し合うのと、紙に印刷して細かいコメントを書き込んで手渡しするのと両方あったんだけど、その手渡しのほうに、容赦ないコメントが書いてあったり、誤解を招いたコメントがあったらしい。そういうのは水面下で起きていた模様。確かに、書いて渡すコメントは便利なこともあるけど、誤解も招きやすい。話したほうが速いこともある。この辺の事情は、普段の翻訳の仕事でも同じ。私は仕事でそういうコメントを受けることに慣れているから、厳しいコメントにもそれほど動揺しなくなっているだけなのかもしれない。 コメントに関しては、「こっちはあれだけコメントしてあげたのに」とコメントが少ない人に対して若干不満を感じたことはあったけど、実はそれは、私が結構完成度の高い状態のものを持っていったせいかもしれない(一回日本語で書いたものを英語で書き直しているため)。他の人はもうちょっと下書き状態だった。 しかしながら、今回のクラスも非常に実りあるもので、そう思ったのは私一人ではなかった。定年退職したオバサンが一人いて、その人は、自分より若い人に囲まれて知的好奇心が久しぶりに満たされたのがうれしかったみたいで、授業の後、普段は一緒に渡らない歩道を歩きたい、と言ってはいつもより長く一緒に歩き、「ハグしてお別れしたい!」と言い出して、私とあともう一人の3人でハグした。 私はどうしても今書いているものを完成させたいので、これ以上、どのクラスを取ればいいのかわからない状態。どうやら、大きなストーリーを完成させるには、マスタークラスなるものを取らなければならない仕組みらしい(まだちゃんと調べてないけど)。そんな面倒なことはしたくない。そんなことに授業料を払うぐらいなら、プロのライターに家庭教師をしてもらいたい。
When We Were Orphans
カズオ・イシグロをまた読んだ。これ(も)面白かった。 この方は、やっぱり日本人的(?)ディアスポラを描きたい人なのではないかしらん。戦後に海外に出た日本人というのは、ある時期に何か事件のようなものが起きて、一斉に多くの人が祖国を失う紛争難民みたいなタイプの民族的ディアスポラじゃなくって、海外に出たのは非常に私的な理由でありながらも、その背景としては個人を超えたもっと大きな時代の流れのなかで、ある種のディアスポラを経験する。だから、他人から「自分で勝手に外に出てったんだろうが」と言われてしまえば、それでおしまい。どこかの政府や団体が介入することもない。カズオ・イシグロ自身がおそらくそうだし。彼の場合は親についてイギリスに渡ったのだけど。 でも「自分で勝手に外に出てったんだろうが」では、想像力というか共感力がなさすぎる。結局は「拠り所がある」と思い込めるほうが幸せなのだろうけど、「拠り所」というのはいつ、何時、どんな形で失うかもしれず、失いかけてから取り戻すこともあるし、「あるという思い込み」がふっと薄れたりすることだってある。「国」というくくりだと想像できないなら、「村」とか「家族」に置き換えるといいかもしれない。そういうくくりの端にいる人ほど、共感できると思う。 そういうことを物語るための設定が、カズオ・イシグロの場合、ちょっと笑ってしまうほどとても壮大なところが、とても大好き。
San Francisco BART (兼高かおる 世界の旅)
この間、大昔のテレビ番組「兼高かおる 世界の旅」のサンフランシスコ編を見ていたら、なんと、BART の建設の様子が取材されていた (1966年)。その頃も、ベイエリアの人口が激増して(インテルとかシリコンバレーの老舗企業が生まれる直前だったから? それとも戦後で人がいっぱい戻ってきたから?)、交通渋滞が激しかったのを解決するためだったらしい。 番組はオリンダへ抜けるトンネルを掘っているところだったし、オークランドの長閑そうなジャック・ロンドン・スクエアも出てきた。BART の海底トンネルの話とか、車両がいいですね!と番組で褒めていた(その頃から車両は変わってないよね??)。 一番ビックリしたのは、BART 以前は、サンフランシスコからオークランド空港に行く交通手段として、水陸両用車が使われていたこと。ボートに乗るかのようにサンフランシスコ湾を渡り、空港に着いたら、そのまま岸からズボーっと車体ごと揚がって、空港の滑走路みたいなところを走り出すという、非常に便利そうな乗り物だった。 海を走ってきて... 陸にあがる ボストンで、アヒル型の水陸両用車に乗って観光したことあるけど、同じようなものみたい。 それにしても、当時の飛行機の中の通路がとても広い。今では考えられない。そして、番組そのものが長閑だった。
Baby Driver
予告編が苦手な感じだったけど、ジョン・ハムが好きなので見た。チョロっとしか出てこないのかと思っていたら、なんのなんの! しつこいぐらいに出てきた! しかも、イメージにぴったりな、きわどい役で大満足。 http://www.imdb.com/title/tt3890160/ 暴力シーンが多くってじっと大画面で見たりはできなかったとは思うけど、ストーリーはとても面白かった。音楽も。いやでも、ラスベガスの銃撃事件の後には見ていられない映画かもしれないな。いくらゲーム的でも。 地下犯罪組織の世界に住む人たちにも、それぞれの仁義や人生哲学があって、絶対に看過できないことがある、というのが縦糸。そこでプツンと糸が切れると、ビービーとアラーム音がうるさく鳴って、ものすごいことになる。面倒くさそうな部分が、徹底して全部短いのがよかったな。 ケビン・スペイシーはいつもどおりだったし、ジェイミー・フォックスのセリフがことごとく面白かった。その相手をしているジョン・ハムも。 あのダイナーで働いてる女の子も好き。ダウントン・アビーに出てたときも可愛かった。アメリカ映画にはダイナー。ダイナーっていいよね。ダイナーで出てくる薄いコーヒーが大好き。 目をつぶったり、耳を塞いだりして見ちゃったので、もう1回見ようっと。
聖の青春
万感胸に迫る思いで「聖の青春」を読んだ。同世代というのもあるな。村山聖が好きだったボストンの曲をずーっと聞きながら読んだ。私もあることをきっかけにほぼ自分の好きなことだけをして生きているけど、常に死を身近に感じているわけではないので、「生き急ぐ」ことがなく、ダラダラしている。 映画も見たけど、やっぱり映画だと方言の問題(広島弁と関西弁のダブルパンチ)と、本人がかっちょよくなりすぎるので、本のほうが面白かった。映画は映像と音声が勝負なんだから、そこんとこなんとかならないのかしら、と思うけど難しいのかな。 実は、映画で聖役だった松山ケンイチにそっくりな中国人の男の子がライティングのクラスにいて、昨日授業の後、「ちょっと見せたいものがある」と言って引き止め、スマホ画面を見せたら、ちょっと喜んでいた(一応、松山ケンイチだし)。しかも「将棋」を知っている子だったので、話が早かった。 羽生善治の本もいくつか読んだけど、棋士の考えていることを読むのはとても面白いね。この本は本人が書いているわけじゃないけど。
クリエイティブ・ライティング、その2
やっと終わりが見えてきた! と燃え尽き気味。でも燃えているときのほうが、瞳孔開きっぱなしで、ある意味楽しい。ひと仕事した直後は、すっごく自分が賢くなったような錯覚に陥るけど、またすぐに忘れていくんだなぁ。 で、その合間に、ライティングのクラスの第2弾を取っている。書いたものをひたすら授業に持っていき、みんなに読んでもらってフィードバックしてもらうだけ。自分のものを書いて、人の書いたものを読んでいかないと、話にならない授業なので、相互扶助的で楽しい。 私は一度日本語で書いた物語を「う~ん、なんか違うかも」と思って英語で書き直している。登場人物と設定と細かいセリフは同じでも、まったく違う話になっている。なんで英語で書こうと思ったかというと、日本語だと好きなように書きすぎて、自己満足に陥ってしまうから。で、今のクラスだと、たとえば、 「鈍色の海」 みたいなことを書くと、「お~い、そういう表現は詩的かもしれないけど、みんな(作家が)使ってるし、陳腐だよ!」みたいなダメ出しが入る。自分にも心当たりがあるので、ちょっと恥ずかしい。 クラス取ってる間に書き上げたいけど、無理そうなので、また取る。
BLADE RUNNER 2049
ブレードランナー2049、見に行ったけど、思ったより静かな感じで、語りの多いところでうたた寝してしまった。ライアン・ゴズリンの軽妙な感じがよかったな。 1980年代の時点では、レプリカントのコンセプトはドキドキして新鮮ではあったものの、2017年だと現実味がありすぎて「嫌だな」と思ってしまった。いろんなAIもの映画の題材がひっぱってきてあって(引っ張ってきたつもりはないと思うけど)、オリジナルのブレードランナーの要素も盛り込んであるから(当たり前だけど)、既視感も強かったね。 新ブレードランナーとその恋人のからみに、「ほほう」と思ったけど、その後でブレードランナーが若干沈んでるのを見て「当たり前だろ」と思ったね。やっぱり、本物の恋愛&本物のセックスが最後の砦なのかな。 ココ役のデイビッド・ダストマルチャンが気持ち悪くって好き。 アナ・デ・アルマスがメークのせいで満島ひかりに見えた。 ハリソン・フォードの後ろ姿に年齢を感じた。 でも、ブレードランナーについて熱く語ってくれる人がいたら、「へえ、面白い映画なのね」と記憶がすり替わる可能性大。
クラスメートとカズオ・イシグロについて
カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞した日にライティングのクラスがあったので、「彼だったね」と話をクラスメートに振ってみた。そしたら、「読んだことない」とか、彼のジャパニーズな名前から、「やっぱ、英語圏の作家ばっか、読んでちゃダメよね」と言うので、「いやぁ、イギリスの作家だけど」と言ってみたものの、そこから、村上春樹と並べて話が始まってしまった。村上春樹と一緒にしてほしくない、とかそういうのじゃなくて、クラスメートは村上春樹の作品を「翻訳作品」として読んでいるから、「違う」と私は思っただけだけど。 一応、クラスメートのために言っておくと、たまたまイシグロ作品を読んでなかっただけで、みんな信じられないほどの読書家です。 日本でも、カズオ・イシグロの日本とのつながりを強調して、たぶん日本人がノーベル文学賞を取ったぐらいの喜びを感じていると思うけど、たぶん本人は「どこに属しているのかわからない自分」をよく知っているので、困惑していると思うな。『日の名残り』ってまさに、どこに属しているのかわからないままの自分を受け入れている人の話だし。
