麻雀放浪記2020

トロントでやっている映画祭で北米初公開の『麻雀放浪記2020』を見てきた。斎藤工も来たから、彼のファン(つまり日本人の女の子たち)も大勢来ていた。まあ、私は別に斎藤工狙いで行ったわけではなく、別のつながりから足を運んだので、そっちのほうの目線で感想を書いてみる。

先日、山ちゃんと蒼井優の結婚の速報が流れたとき、ネットフリックスでテラスハウスを見ている海外視聴者は多いので、山ちゃんの認知度は高かった。で、斎藤工って海外 (のSNS)でどれくらいの認知度なんだろう、とふと思った。まぁ、私の言う「海外」とは「北米」に限定されるが。

せっかくの北米初公開でも彼のような人気者が来ると、日本人ばっかりが見に来る。それはそれで大事なことだけど、水前寺清子が来たって同じことになるので、せっかくの映画の「北米での受け」はわからなくなってしまう。

で、本題。
「おなら」の受け止められ方は、日本とはすごく違う。自然現象だから仕方ないよね、というのが一般認識で、おならで笑いを取るのは比較的低い確率じゃないかと思う。Lost in Translationの典型だと思う。個人差もあるかもしれない。で、私は「おなら」の意味がよくわからず、気が削がれてしまった。

次はタイムスリップ。いつかは元の時空間に戻るのだろうと予想はついていた。話が進み、戻る手段も見えてきた。タイムスリップや天国から降りてくる「降臨型」のお話は、必ず元の場所に戻っていく。そうとわかっていても、もしかしたら戻らない、戻れないんじゃないか、とドキドキするのがお決まりだし、そうドキドキしたい。坊や哲が本物の勝負師なら、AIともっと本気で勝負してほしかった。ましてや昔の人なのだから、AIが何なのか、現代人より知識が乏しいはず。将棋の羽生さんだって、AIと勝負したいと言っているのだから、坊や哲がAIの凄さに気づいたら、現代にとどまり勝負し続けたかったんじゃないのか。そこからAIを愛してしまう可能性も広がる。そしたら、ジャンパイを握りしめた腕を振り上げ、勝負したくても100%で勝負出来ず、腕を振り下ろせなくなる(つまり現代にずるずるといてしまう)可能性もあったと思う。そのほうが納得できた。でも私は麻雀の知識がゼロなので、なんか間違ったことを感じてしまったのかもしれない。

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