小学校の頃ひめゆり学徒隊についての本を読んだ。何度も読んだので、冒頭で、著者の男性が12月の那覇空港に降り立ち、冬でも暖かいからコートを脱ぎながら、学徒隊の生き残りである女性に迎えられるシーンを覚えている。これで読書感想文も書いたからわりと鮮明にいろんなことを記憶している。そういう刷り込みがあって、是非ひめゆりの塔を見てみたい、本で読んだガマ(洞窟)は想像どおりなのかしら、などと今回沖縄旅行の目玉になっていった。
那覇のホテルからタクシーで糸満市に向かう。道すがら、那覇空港横にある自衛隊の基地を通り過ぎる。「不発弾処理」と書かれたジープを見かけたので、運転手に尋ねると、不発弾は沖縄にはまだ多く残っていて、発見したら警察に連絡し、警察から自衛隊に要請を出して、不発弾処理班が出動するのだという。新聞に「半径何メートル以内にいる人は、何月何日に避難」という告知が出るという。緊急の場合は、サイレンを鳴らして現場に駆けつけることもあるとのこと。
運転手に「ひめゆりの塔にある資料館に行きたいのか、その先の平和記念公園に行きたいのか、両方なのか」と聞かれオタオタ。スマホで調べる。「とりあえずひめゆりで」、「ひめゆりそばでも食べてから見るといいよ。学徒隊の生存者の方たちも、そろそろお迎えが来る頃だからね、証言活動は今はビデオだよ」と教えてもらう。
塔はもっと山奥にあるのかと思っていたら違った。外科壕跡の前は献花でいっぱい。中を覗き込むのは憚れるような気がしたけどちらっと見た。結構深い。壕というより洞窟。この壕にいたほとんどの人がこの中で亡くなっている。
資料館の入り口にはクイズが。「4月1日にアメリカ軍が上陸した島の名前は」。答えは沖縄本島。偶然だけど、私たちが資料館を訪ねたのはその4月1日。
展示は沖縄戦の経緯が時系列で説明されているのと、大戦が始まるまでの沖縄の文化背景(日本本土の教育を標準日本語で受けたり、沖縄の方言や文化が排除されていった様子など)や、非戦闘員である若年の沖縄県民がどのように動員されていったかが説明されている。教員になるはずだった女学生に看護訓練が付焼刃的に施されたこともわかる。生存者の証言ビデオは、アメリカ軍が撮影した当時の戦地の映像とともに見ることができる。証言者の話しぶりから優秀な人たちだということがわかる。証言も映像も実に痛々しい。「すごい!すごい!」と本物の人間が殺されているのをむしろ面白がっている感じで見ている大人もいて、70年の長さを感じた。そういうのってお茶の間ではアリなのかもしれないけど、資料館では慎んでほしいな。
手記の形での証言コーナーもあり、いくつか英訳もされている。十代の女の子たちが、米軍に占拠されている丘のガマ(洞窟)の中で解散を命じられた絶望が綴られている。70年前の3月23日に動員され、その約三ヵ月後の6月18日に解散を命じられ、その解散後、見放された形で、ひめゆり学徒隊のほとんどが亡くなってしまう。解散まではそれほど死者は出ていなかった。
資料館は小さいながらも見ごたえがある。やっぱり最後に行き着くのは、市民(非戦闘員)の犠牲を避けるための交渉がもっと早い段階で行われるべきだったのに、そうならなかったのはなぜだろうという疑問。沖縄戦では沖縄県民の4人に1人が亡くなっていて、沖縄の建物の8割が破壊された。
まあ、楽しいバケーション中に立ち寄る場所であるかどうかは難しいとこだけど、行ってみてよかったな。春休みだったからファミリーで訪ねてきた人もたくさんいた。
スマホで地図検索すると、ガマを追われた人々が逃げたという海岸に歩いて行けそう(この海岸は血の海だったらしいが)。というわけで、資料館から歩いて海岸へ。とても長閑なところだけど、あちこちに各県からの沖縄戦戦没者を弔う碑が建てられているので、このあたりが戦闘地だったということがわかる。近くにある平和創造の森公園の中にも東京都関係者の戦没者を弔った東京之塔がある。サトウキビ畑もある。海にはサーファーがいっぱい!
沖縄本島の南端だし、この日は天気が良かったので夕日がきれい!平和創造の森公園は戦火で草木がなくなってしまったところを植樹して緑化しているのでとてもきれい。
帰りのタクシーの運転手に那覇新都心の近くにあるホテルの名前を告げると「ああ、あそこは昔からあるホテル。3回ぐらい名前変わってるけど」と豆知識を教わった。新都心は米軍住宅地跡地を再開発したところということも知った。道理で街がなんか新しい。
…とこれを書いていたら、天皇陛下と皇后陛下がパラオのペリリュー島に慰霊の訪問をしていた。70周年だしね。
生存者にお迎えがきて語り部がいなくなり、天皇陛下にだってお迎えがいずれ来るのだから、戦争の振り返り方も変わっていくだろうな。そういう意味でも70周年は大切かもな。



