ロンドンにいる間にカズオ・イシグロの本を読んだ。血は日本人だけど、英語でしか書いていないし、しかも書いている英語がとてもブリティッシュ。「カズオ・イシグロが好きなんですよね」とイギリス人に言うと、読んだことのある人なら「彼は日本人なのにイギリス人以上にブリティッシュだよね」などと言う人もいる。
私が読んだのはこれで三作目だけど、どれもこれも大した事件も何も起こらず、淡々と時間が流れていき(ページをめくり)、七割読んでも、いや八割読んでも、「一体何の話なのだろう」と思ってしまう。教授に「どんな話?」と聞かれても返答に困る。そこで、彼にも『日の名残り』を読んでもらい、その素晴らしさや不思議さを理解してもらい、「すごく面白いけど、まだ何も起きてないよ」というと、「へえ、やっぱり!」と気持ちがわかち合えるようにはなった。
この『浮世の画家』(邦題)は前に読んだ二作に比べると、「何も起こらない」ことにかけてはもっとすごい。小津安二郎の「東京物語」を過度に期待して観て「えっと…それで?」と思ってしまうのに似ているかも。『浮世の画家』のストーリーの設定は太平洋戦争直後の日本。あの時代のアッパーミドルクラスな家族が非常に回りくどいイギリス英語で会話している。実はそこがとても面白い。ちょっと古い時代の上下関係や、家族関係や、男女差など、直接はっきりとものを言うことが憚られる要素に溢れ、会話のまわりくどさは半端ない。今の尺度で計るとイライラするぐらい。
しかも時代は「第二次世界大戦直前、直後」で、その戦争に加担してしまった過去の責任を問われている男が主人公。でもその責任を問う人たちが社会的人間関係でいうと、その男の下に位置づけられていて、目上の人を敬うとか個人よりは個人が帰属する団体を重視する文化により、そういう文化の外側にいる人からは何の話なのかわかりにくい構成になっている。
でもこれってすごくない?だって本当に日本って第二次世界大戦のあたりのこととなると避けてしまいたいことが多すぎて、すべてが曖昧で、ズバっと言語化することを避け、禁忌を破ることができず、時が解決してくれ、みんなに忘れてもらえることを願っているフシがある。そんな禁忌を破れない人々のまどろっこしい会話が丁寧さだけはイッチョマエのイギリス英語でまどろっこしく書いてある。丁寧さだけはイッチョマエの日本語との恐ろしい共通点…
アメリカナイズされてしまっていて(?)現代に生きる私は、読みながら「ああイライラする!はっきりモノを言え!はっきりと!」と肩に力が入りながらも、私の中の日本人の部分が「そこは厳しいよね…」と同情もする。
こんなにも日本の痛いところを最後の最後まで日本っぽく、英語で書いてしまうカズオ・イシグロはやっぱり面白い!
これ1986年の本。

