孤高の人

藤原正彦つながりってことで、その父、新田次郎。「山の人」のイメージが強かったので、きっと私が喜んで読む話ではない、なとど思い込みをしていたが、それは間違っていた。

冒頭で既に結末が明かされているので、どのタイミングで?誰と?コイツとか?あの人とか?などと余計な憶測をしながら、急かされるように読み耽った。下巻中盤以降はもうツライ。「そこではっきり言わなければダメ!」と本を握る手に力が入った。力みすぎて顎が痛い。

この話でいうところの「孤高の人」とは、単に自己の世界に頑なに閉じこもり、孤独を厭わない人をいうわけではない。仔細に物事を調べ上げて未知のもの理解し、自分を取り巻く雑多な情報から結論を導き出すことができ、他人に容易く感化されることなく、自分を距離を置いて見つめることができ、自己責任で行動が取れる人をさす。そして一般に誤認されがちな性質、たとえば孤高と頑迷、上下関係と隷属関係、一徹と執拗、物静かさとテレなどなどを巧みに対比させることで、ますますその「孤高さ」が光っていく話だった。特に、不安がとりまいていた第二次世界大戦突入前の話だから、頑迷な人や世間あるいは時代のネタには事欠かない。

最近、ネットでニュースを読んでいると、関連記事がズラズラと表示される技術のせいと、時勢もあって(アジア情勢とか)、「私は煽られている!」と感じることがとても多い。だから「携帯を持たない」ことを貫いている友人・知人を、ネット世界との付き合い方が上手い、現代の孤高の人と尊敬して止まない。

先日、文芸翻訳に造詣の深いカナダ人の真ん前で、ざっくばらんに話をする機会があった。自己アピールできる状態ではあったが、やっぱり私には直球は投げられない。ライ麦畑の2つの和訳の話と、本人が目指しているかどうかは別の話として、村上春樹が本を出すたびに商機を狙った人々(企業)が諸手を挙げて褒めちぎる(というか売る)様子がその経済効果は認めるけど嫌いだとか、村上春樹が築いた財産の行方の希望的観測とか、私の柴田元幸さんラブについて語らせてもらった。しかし、一夜明けて、やっぱり「なんかあったらお手伝いさせてください」ぐらいの一言はしっかりと目を合わせて言えばよかったのではないか、などと後悔もちょっとしてみた。もう遅いけど。

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