何が何だか(手芸とファンシーについて一言感想)

「ヤンキー文化」を引き合いに出して現在の日本を語る記事を最近多く目にする、という話から、「ヤンキーを公約数的に捉えて面白いことを言い始めたのは、ナンシー関じゃないか?」ということになり、いったんそういう視線でものを見てしまうと、すべてが彼女を元ネタにしているように思えてくる。そんなわけで、今ものすごく内輪で彼女が再評価され、その著作の貸し借りが頻繁。

今借りている「何が何だか」に「日本のほとんどはサンリオとヤンキーで出来ている、と言ったのは誰だったろうか」と書いてあったので、ナンシー関が大元ではないことが発覚した。今日の重要発見。

しかし、それだけにとまらず、「ファンシー」文化のタチの悪さについて言及していた。「ファンシー」とはおしゃれ生活雑誌、子供&一部の大人ファッション雑誌などでよく見かける「カワイイ」文化のことを指すらしい。「カワイイ!」とは「最強の万能感覚」で「複雑な心象を言語化するのを放棄する」言葉であるらしい。手芸文化にも「カワイイ」ははびこっている。きのこ、りんご、森の動物、鳥、にゃんこ、ワンコ、そしてマトリョーシカ… はすべて「カワイイ」の記号だ。

私の好きな番組のひとつ、Portlandiaのかなり最初のほうのエピソードで「Put a bird on it」というのがあった。ハンドメイド文化を茶化して「何にでも鳥のモチーフくっつけちゃえ!」という話で、最後は本物の鳥にグチャグチャにされてしまうのだが、非常に面白かった。「ファンシー」は世界的な現象で、別に害があるわけでもないし、からかいづらいものであるかもしれない。かくいう私もマトリョーシカをはじめ、全体的に「かわいい」ものを代表するモチーフが好きだしな。

でもかわいいものを消費しているだけの時点なら、ちょっと小馬鹿にしたりできるけど、本気で(私のように)誰に頼まれるわけでもなく、せっせせっせと何かを作っている人、「これでいつか何かを作れるかもしれない」とリボンの切れ端などを溜め込んで、家の中の整理が出来なくなっている人たちにとっては、「ファンシー」に便乗させてもらうことは重要である。だって、手芸が趣味な人は「手を動かしている間の幸福感」が重要だから。とにかく何か作りたい。でも最初からデザインしていたのでは作業に辿り着くまでに時間がかかる、折角時間をかけて作るのだから人にウケがよいものが作りたい、ということで「かわいいレシピ」が求められる。作っては人にあげたり売ったりしないことには、家の中にどんどんモノがたまっていくだけだ。回転させるには人に求められることが重要だ。私など毛糸を買いすぎてその収納場所に困っており、毛糸を消費するためセーターを編んだりするが、毛糸がセーターに変身したからって収納場所が増えるわけではない。形が変わっただけ。そしてこれは編みものを趣味にしている人たちの万国共通の悩み。編み物ブログを徘徊してみれば、必ずそういう「悩み」が吐露されているのを目にする。

手を動かしていないと不安になる。
テレビ見ながら手を動かしていたい(マルチタスクしたい)
毛糸を買い込んでしまう。
収納場所がなくて収納オタクになってしまう。
収納しきれなくて半ば強迫的に編む。
手持ちの毛糸だけでは足りない編図を見つけ、また毛糸を買う。
こんなに作ってしまうなら、クラフトフェアに出たほうがいいんじゃないか、とさらに材料を買い込む。
家庭内でケンカになる。
ジャッジ・ジュディを家に呼びたくなる。

手芸に過度にかかわると、生産的なことをしているはずなのに「病んでいるのでは?」と思ってしまう(思われてしまう)。だから、ハンドメイドしている人を「ファンシー」にどっぷり浸かっている人ということで軽々しく小馬鹿にするのは気が引ける… ということでハンドメイドは内輪だけで盛り上がりを見せ、外部者は見て見ぬふりをする、という結果になっているような気がする。アニメが一部のオタクを超えて市民権を得たのと違い、手芸はおそらくずっと隠れたところでしか流行らないような気がするのも、どこか切実なところがあるからかもしれない。

ナンシー関の読みすぎ…かな。

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