桐島、部活やめるってよ

役得でチケットを無料でもらい、ようやく私も「桐島、部活やめるってよ」を見た。JCCCのトロント日本映画際でも上映されていたけどReel Asian Festivalで夕べ見た。

英訳は「The Kirishima Thing」。日本の人には今更な話でしょうが日本映画を海外の観衆と見るのはまた面白いものですよ。私の前にはアジア系の「イケてない部類に属してた男の子たち」が横並びに座っていて、映画部の男子全員の一挙一動にワイワイ共感の叫び声をあげておりました。

高校生の生活を垣間見るようなスジの話かと思っていたら、むしろ大人世界の縮図といおうか、最後は曼荼羅を見ているようだった。曼荼羅の中心が姿を現さない「桐島」というわけ。桐島との交友関係を結んで高校生活を営んでいた子たちが何人かいて、その基軸的存在の彼が動いてしまったがために帰属意識が揺れ動く。その交友関係の外側に居る子たちもその波及効果を受ける。

じわりじわりと押し寄せる究極の問い「オレって…」

自分探しとはちょっと違う。オレってなにやってんだよ、という生きている限りは必要な微調整かも。性的に熟してきた高校生だけが上っ面なかっこよさ(またはそこから逸脱しているために起きる不人気さ)に振り回されるわけじゃない。生きている限りいろんなカッコイイ・ライフスタイルがあちこちで提示され、そのシャワーを浴びて生きている限り「何やってんだよ」の自問は止まらない。

勇気を振り絞れる強い人なら気合を入れて微調整はできる。真面目な人だとそういう問いに真正面から取り組んでしまうかもしれない。他人の目がどうしても気になる人、空虚な気持ちに耐え得る人または鈍感な人なら、微調整のチャンスから逃げたり通り過ぎてしまうかもしれない。「桐島、部活やめるってよ」という掴みどころのない知らせが個人に与えた影響がそれぞれ違ったのは、その知らせをどう捉えたかが違ったからだし、それはつまりそれぞれ違う人生を歩んでいるということの証。各人がその知らせに振り回された度合というのが、見ているほうの私が感じる「痛さ」に比例してたな。オタクな映画部に「イタイ人たちねー」という場合の痛いとは違いますよ。実際映画部の人や吹奏楽部の女の子には痛さなんてかんじなかったし。

掴みどころのない一見不吉そうな知らせ… 大人の世界ならそれは「不景気」とか「ある宗教/政党の勢力拡大」とかかな。私たち思い切り振り回されてるな。

原作の小説読みたいな。

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