サンフランシスコでお茶会

サンフランシスコにいます。

4月9日は裏千家の家元がサンフランシスコを訪れ、大きな記念イベントがありました。お茶をやっている人しか見ることができない、日本にいたって家元のお点前を見る機会など滅多にない、それはそれは貴重な体験でした。

私は古い和風な家に育っているので日本にいた頃は日本伝統文化なんてイヤ!と毛嫌いしていました。そんな私がなぜか海外で茶道に触れて、「貴重な体験」と言っているのですから人生何が変わるかわかりません。でも思うのは、家元という立場の人こそ、伝統文化への「反抗心」を若い頃はメラメラ燃やしていたのではないかということです。

今回は家元の献茶式が厳かに1時間お寺で行われ、その間そのお嬢さんなど家元一家はじっと微動だにせず美しい座り姿を保っていました。私はごそごそごそごそしていましたが、そのことに気づいて、「あの人たちは子供の頃からあんなふうにじっと座っていられるように躾けや訓練を受けて育っているんだな」と、やや気の毒にもなり、感心もしました。

その後、家元の講義があり、それはとてもよい話でした。茶道は禅仏教に深いかかわりがあるので禅っぽい話です。

自分の「影」というのは晴れている日にはよく見えるが、曇りや雨の日は見えないけれどいつも自分にくっついている。影と離れたいと願うことは、自分を消さなければならないということになる。自分を消すということはやはり誰も望むことではないので、影と共に生きていくことになる。月の光は幽玄だけれど、月だけが美しいのではなくて、星や街の明かりと共にあっても美しい。月は欠けていくけれど、また新月となり満月にもなる。冬枯れも何かの終わりではなく春の準備である…. というような喩えから、自分の暗い部分を認めて共存、他人との違いを認めて他人と共存することで、他人を非難したり文句ばかりいうということをなくしていく。もっと欲しいという貪欲さは捨てて、足るを知り、自分はこれでいいんだなと思うこと、豪華な茶道具ばかり揃えたりしない、茶事のテーマにそった誂えをする、その誂えができるようになるには、「足るを知る」 …. そういう話でした。

ああ耳が痛い。

でも、家元となる立場の人たちは、苦しい思いをして自分の「影」と共に生きていく覚悟を結構若い頃から強いられてきたんだなと思うと、随分重みのある言葉だなと話を聞いていました。

そして、斜め前に座っているアメリカ人の男の人が一生懸命メモを取りながら話を聞いていました。隣にいたアメリカ人も熱心に聴いているのがそのうなずき具合からよく伝わってきました。

とても長い一日でしたがよい日でした。

Leave a comment